日に1,000本を超える記事の見出しを見てそこから読みたい記事を読み、dマガジンで週に20冊以上の雑誌に目を通し、読書量もそれなりに多く、動いている時間の多くを音声コンテンツを聴くのに充て、テレビのニュースも早回しで複数本観るので、俺ほど情報を浴び続けて生活している人間はそういないだろうなと自分でも呆れ返ってしまうが、あらゆる情報を浴び続けていると意見を述べる上でポジションを取りづらくなっていく一方だなつくづく感じている。
物事にはどうするべきかが明らかな話と、どちらかを立てればどちらかが立たずとなるためにどこかで妥協点を見いださなければならない話とがあるが、前者の場合、わざわざ意見を述べる必要性を感じないし、後者の場合、とある意見に対して自分で即座に反論をぶつけることができるようになるので断定的なポジションを取りづらくなってしまう。
自分内ディベートで片方を論破できない状況が多々発生してしまうのである。
理解を深めれば深めるほどこの種の沼にはまる。
意見はいくらでも思いつくが、多角的に考えるようにすればするほど断定できなくなっていく。
聞く力がある人の判断が鈍るように思うのには間違いなくこうした面があるのだろうなと思う。
それでも自分なりには自分の考えをまとめて整理するようにはしているが、それだけで精一杯である。
情報に追いかけられまくってて、なんとか消化して情報を自分なりに消化し続けて、その結果としてどんどん断定できなくなっていくのだから皮肉としか言いようがない。
ここからさらに自分のポジションを取るのにはかなりの熟考を重ねる必要があるのだが、それには相当なエネルギーを使う。
私生活に関することなら熟考して改善の道を探るが、世の中の問題に対して熟考を重ねてポジションを取るところまで達したとしてもそれを発揮する場はなく、単なる自己満足に終わってしまう。
自己満足のために相当なエネルギーを使うのが面倒なのでとりあえず情報や人の意見を頭に入れまくって、それを消化して自分のなかで整理するまでにしているのである。
俺が言論活動をしていたり、コメンテーターでもやっていれば必死に考え抜いてどうにかして明確なポジションを取るようにするのだろうが、こちとら単なる仙人もどきである。
本ブログの読者数を増やしたいというモチベーションもほとんどない。
ところで、情報を頭に入れまくることについては苦にならないというか、逆にそうせざるを得ない現代病になっているということを先月に述べた。
人間も動物だが、長い人類史のなかで人がこうした頭の使い方をするようになったのはつい最近のことで、絶対に人の身体の進化に沿っていない脳の使い方だとは強く自覚している。
情報や人の意見を頭に蓄えまくっていいことが何かあるとすると、突拍子もないことを言って恥ずかしい思いをせずに済むことぐらいだろうなと思う。
なまじっか自分の知識量が多すぎることもあり、ラジオやYouTubeなどを聴いていて話し手が事実誤認しているのを恐ろしいまでの頻度で発見してしまうのだが、なにしろ話す本人が気づいていないし、後でチェックもされていないことが多いので、そのまま垂れ流され、話すほうも恥を感じることがないということも多かったりする。
また、知識量が無駄に多いと人から聞くことの多くが既に知っていることばかりになってしまうので、その辺で生意気にならないように上手く遊泳する必要はあるなと感じている。
ここまで書いて、過去にも同じようなことを述べたことあったかなと思って調べたら書いていた。
そして、摂取する情報量は年々増え続ける一方で全く困ったちゃんである。
本ブログも以前はポジションを取って自分の意見をしっかりと述べていたのだが、最近はしっかりと意見を述べることが少なくなった。
それは、自分が思慮深くなったからだとも思うし、深くしつこく考えるのが面倒になったからだとも思う。
前者は良いことだが、後者は残念なことである。
1月末に静岡に出かけたので、写真を貼っておきます。
お台場の青海コンテナ埠頭
今年の3月27日に閉館するヴィーナスフォート。1999年3月にできた時にはものすごくフューチャリスティックに思えたが今はむしろ逆に思えるのだけど無くなると思うと寂しい
既に日本に返還された米軍根岸住宅を外から見る。遠くない未来にこの広大な敷地が開発されることになっているし、計画も出ているのだがどうなっていくのだろう…
山手イタリア山公園を通りがかる。この時期なので洋館もガラガラ
豊洲ぐるり公園をぐるり
建国記念の日の東京駅