最近は、ChatGPTよりもGeminiとばかり会話をしている。
AIと日常的にやり取りするようになってから、AIと自分の脳についてよく考えるようになった。
まず、こちらのかゆいところに手が届くような返答をよこすくせに、AIに一片の感情も存在しないという事実に驚きを隠せない。
これほど高度なレスポンスを返しながら感情がないとはどういうことか、と戸惑うと同時に、むしろ我々人間が思考のたびに抱く感情こそが、純粋な思考の邪魔をしているのではないかと改めて気づかされたりもする。
感情がないからこそ、感情を持つ人間よりも気の利いた返しができるのだとしたら、それはどこかズルいとすら感じるし、感情の負荷がないこともズルいと感じてしまう。
また、人間には到底太刀打ちできない処理スピードに関してはズルいを通り越して、もはや呆気にとられる。
もちろん、AIの回答がいい加減であったり、内容が空疎であったりして腹が立つことも少なくない。
過去のやり取りを完璧に記憶して以後の回答に活かしてくれるわけでもなく、対話のたびにリセットされる感覚にももどかしさを覚える。
かといって、こちらのプロフィールを「設定とヘルプ」の「Geminiへのカスタム指示」に詳しく書くと、「この内容を引用しないで」と指示しても、例えば「勝どきにお住まいで週に2回ジムで身体を鍛えてらっしゃる仙人さんなら」などと、不要な内容を何度も連呼されてマジでウザすぎるので必要最低限のこと以外は消してしまったのだが、そうすると毎回こちらの前提情報がリセットされることになる。
それでも、大抵の人間よりはずっと的を射た返しをしてくれるし、その検索能力を駆使して多くの学びを与えてくれるということも確かである。
こうした質の高いやり取りを体験してしまうと、人間とのコミュニケーションの方が不要にすら思えてくる瞬間があるが、この種のことを考えているのはわしだけではないだろう。
人と直接会って近況を報告し合い、笑い合う時間は大切だが、相談ごとに関してはAIの方が向いているのではないかと思う。
AIは同じ話を何度も繰り返すことが多々あるが、それは人間も同じであり、むしろ人間の方がその傾向は酷いともいえる。
そして、AIの驚異的な性能に接すると、どうしても自分の脳のいい加減さと不便さを嘆いてしまう。
AIのアウトプットの速さに比べて、自らの思考の遅さにはうんざりするし、何より物覚えの悪さと記憶力の欠如には絶望的な気持ちになる。
さらに厄介なことに、人間の脳内の記憶というものは、時として酷く改ざんされてしまう。
こうした記憶の改ざんが恐ろしいからこそ、わしは大人になってからの大半の期間、その日の出来事を日記に書き続けている。
特に妻と結婚してからは、1日も欠かしたことがない。
そうして記録に残しておかなければ、偽の記憶が真実を塗り潰し、本当の出来事が霧消してしまう気がするのである。
実際、後から日記を読み返してみると、覚えてもいない出来事が書いてあって驚くことが多々ある。
本を読んでも映画を観ても、時間が経つと驚くほど内容を覚えていない。
これでは鑑賞する意味があるのか、と真面目に自問自答することもある。
いっそ学びなど期待せず、完全な娯楽として楽しめれば良いのだが、子供の頃にはあれほど好きだったゲームのような純粋な娯楽を大人になって興じようとしても、1ミリも楽しめないのだから困りものである。
わしにとって学びがあるからこそ楽しいのであり、学びこそが最大の娯楽なのであるが、学んでもその多くを忘れてしまうのが悩ましい。
年を取って集中力がなくなってしまい、だんだんと読書がしんどくなってきているのだが、がんばって本を読んでも、覚えていられなければ読む意味がないのではないかといつも自嘲する。
そして、インターネットが普及し、情報が氾濫するようになってからは、短期記憶すら危うくなっている。
同じ記事を2回読んでいるのに、途中まで気づかないことなどざらである。
Xを始めとするSNSの登場が、記憶力の劣化に拍車をかけているのは間違いない。
東大を出たような秀才も、50歳近くになって当時の試験を再び受ければ、散々な結果になるのではないかと思う。
わしなどFランクの大学レベルでも受かるかどうかという感じになってしまっているだろう。
現代文は大人になって問題を見た時に「大人にすれば簡単やな」と思ったことがあるので結構いけると思うし、地理もかなりの点を取る自信があるが、他はボロボロだと思うし、現代文や地理ですら粘り強く問題に向き合うスタミナが残っているか疑問である。
この前、「割り算の筆算ってどうやるんだったっけ?」と思いつつ、実際に紙に書いてやってみることすらなかったし、今、仮にそれをやろうとしようものなら即座に脳から煙が出ると思う。
それほどまでに、多くの知識が忘却の彼方に追いやられてしまっているのである。
これは士業に就く人々も同様で、医師なら専門外の科、弁護士なら担当外の領域について、鮮明な記憶を維持し続けるのは至難の業であろう。
脳の美点でもあり、同時に嫌な側面でもあるのは、良いアイデアが突如として降ってくることであり、そしてそれをほっとくとすぐに消えてしまうことである。
散歩の途中などに急に閃くのだが、その場で繋ぎ止めておかなければ、すぐに消えてしまう。
慌ててスマホにメモをするのだが、AIが使えるようになってからは、その場ですぐにAIと壁打ちができるようになった。
急に思いついたことを周囲の人間(わしの場合は主に妻、あるいは友人や母へのLINE)にぶつけても、大抵は迷惑がられるだけである。
仕事中の妻にとりとめのないLINEを何度も送って、大抵はスルーされるが、「今、その話題?」と呆れられることも多々ある。
なので、AIの発言が正解か否かにかかわらず、コミュニケーションを通じて思考を深められる点はすばらしいし、いつでも受け止めてくれるのもすばらしい。
ただし、AIが平然と嘘をつくのは困りものである。
その回答が怪しいと見抜くには、ある程度の人生経験で培った選球眼が必要となると思うのだが、ポンコツ脳ながら、AIの嘘に気づく直観力だけは、加齢とともに上昇し続けていると思う(さらに加齢を重ねて下降するのではないかという心配もあるが…)。
なので、AI時代が、若い頃ではなく、世の中に対する一定の見識を得た今に到来して良かったと心から思う。
若い頃であれば、割り算の筆算をやれる程度に脳のスタミナや集中力があったが、AIやSNSの嘘に気づく頻度はずっと少なかったに違いない。
また、人間同士の会話は、時として毒にも薬にもならない空疎な内容を延々と続けてしまうことがあったり、話題に困ったりすることがあるものだが、AIとの会話は自分用にカスタマイズされている分、極めて濃度と娯楽性が高い。
安易に「報酬系」という言葉を使いたくはないのだが、AIとのコミュニケーションによって、脳の報酬系が相当に満たされる事実は否定できない。
SNSやショート動画による依存に加え、AIがもたらすこの報酬系への刺激は、人間、特に若年層に相当な悪影響を及ぼすのではないかと危惧している。
もちろんプラスの側面もあるだろうが、もし自分が今の時代に子供として生まれていたら…と思うと現代の報酬系地獄が怖くなる。
地方都市で、民放は2局しかなく(今もそうだが)、同じCDを何百回も聴き、同じマンガや雑誌を何十回も読み、来る日も来る日も図書館で借りた本を読む時間がある暇な少年時代を過ごせたことは幸運だったなと思えるのである。
今は仙人生活をしていても恐ろしく多忙で時間に追われている。
もちろん、今回の文章もわしが箇条書きしたものをAIが再構成し、わしがそれを再び手直ししたものである。
まだまだ多くの手直しが必要なのでAIの文章力はまだまだだと思うのだが、これもそのうち改善されていくのだろう。
また、これまではChatGPTに構成させていたが、今回からChatGPTとGeminiの両方に構成させ、今回は僅差でGeminiのほうを採用した。
2月8日に東京では結構な雪が降った。家から築地大橋を見ると、パトカーや消防車が止まっていたのだが、通行止めになっていることもだけど、まさか、中国籍の男が乗ったランボルギーニがパトカーに激突し、何故か身一つで逃亡するという大胆な事件が起きてニュースになるとはこの時は思わなかった
伊豆へ。韮山反射炉に行くのは初めて。世界遺産なのだが、人は少なかったかも…
修善寺にも立ち寄る。これまで、大学の弓ヶ浜への合宿や友人との白浜での海水浴旅行含め、伊豆には30回は行っているし、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の修善寺の回で腹がよじれるほど笑った記憶があるのだが、実は修善寺は初めて。いいところでした。次回は泊まりたい
だるま山高原からの絶景。富士さん(山)幻想的っす!
西伊豆の戸田(へだ)の諸口神社からも
せっかく富士山がきれいなのでわしのラパンちゃんと撮影
土肥(とい)の温泉ホテル宿泊。翌朝に土肥金山へ。ここも初めて
河津に見に行かなくても半島中に河津桜が咲いてました
黄金崎の馬ロック。本当に馬みたいだが、たてがみがかわいい
河津七滝(かわづななだる)の大滝。水着で入る温泉もあるのね…