GOODDAYS

東京の真ん中で仙人のように生きる俺のつぶやき

匿名で誹謗中傷する人は100%の確率で不幸で哀れな人

テラスハウス」という番組をずっと前に試しに観てみたのだが、一話を観ただけで「絶対に観るの無理!」と思って観るのを止めた。

有名番組として放映されるカメラの前で真面目に恋愛をできるはずがないと思ったからなのだが、亡くなられてから初めてその存在を知った木村花さんがとても残念な形で人生を終えたという報には衝撃を受けた。

ネット上で匿名で誹謗中傷する行為をどうにかして取り締まれるような法整備が求められるよなと思うとともに、「何も死を選ぶことはなかったのに…」とも思ってしまうし、親御さんと俺の年齢が同じということを知ったこともあって、どうにもこうにも心にひっかかっている。

 

ネット上で誹謗中傷を受けて傷つく人がいることは誰でも理解できる。

知っている人からであれ、知らない人からであれ、罵詈雑言を浴びせられて心穏やかなままスルーできるという人は滅多にいないであろう。

また、幹線道路の脇に小便が入ったペットボトルを捨てるような狂った行為を止めるのが難しいのと同じく、ネット上で匿名で誹謗中傷するという狂った行為を止めるには摘発でもしない限りは難しい。

 

でも、俺はネット上で記名であれ匿名であれ、相手が嫌な気持ちになるような文章を書きたいと思ったことが一度もない。

自分と意見があまりに違っている時に「こいつとは住んでいる宇宙が違うな…」と思ってイラっとすることがあったり、ちょっとズルいなと思って義憤に駆られたりしても、心の中で怒るだけであって、本人にその怒りをぶつけようという気までは起こらない。

怒りという感情には相当なエネルギーがいるわけだが、そもそもそこまでしようと思うほどの怒りが沸かないのである。

そのような怒りが沸くためには、自分自身がよほど不幸な境遇にあるだとか、相手を酷く妬んでいるというような要素が必須となるのではないかと思う。

幸福で、妬む相手もいないので、俺にはそこまでの怒りは沸きようがない。

猛烈な怒りが沸くとすれば非人道的行為だとか虐待行為を行っている人や主体に対してだけであろう。

 

匿名で誹謗中傷する人は100%の確率で不幸で哀れな人であり、この人達は「自分は不幸で妬みやすい残念な人です」「残念なことを言っているので恥ずかしくて匿名でしか書けません」と誰よりも雄弁に語っているようにしか思えない。

このような人は実社会でいかに如才なく振る舞っていたとしても、こういうことをする時点でこの人の全てが台無しである。

このように残念な人のことは憐れみこそすれ、このような人に自分の感情資源や時間資源を使うのは全くを持って無駄なことである。

 

f:id:gooddays-shumai:20200526132233j:plain丸の内ブリックスクエアのバラはひと気がない時に美しく咲いていた

 

積極的に生きて死ぬことについての信念

以下は新型コロナ禍云々の前に俺自身が信念として思っていることである。

もちろん、偏っていると思うし、他人の考えが俺の考えと違ったとしても全く不思議には思わない。

 

もし、自分が平均寿命付近の年齢になった後に病気になったり衰弱したりして、これ以上良くはならなそうだとわかったら、苦しさを伴うような治療は絶対に拒否したいし、延命行為は一切せずに死ぬ寸前まで自分らしさを保って死にたいと願っている。

また、こんなことを言っては認知症アルツハイマー認知症の方やその親族の方に大変申し訳ないと思うのだが、もし、自分にこれらの症状が出て、症状の重度化が避けられない見込みだとわかったら、それを悟り、かつ、自分を保っている時点で、スイスに渡航するなりして、積極的に安楽死したいと願っている。

 

なお、今はすこぶる健康な俺の両親も妻も俺と同じ考えを持っているのだが、俺が両親に本人が望むような死に方をさせてあげられるかだとか、俺や妻が自分の望む死に方で死ねるかということについて考たときに、医療機関によってそれを阻止されてしまうのではなかろうかという不安は相当に強い。

苦しみを伴う治療をしたくないという願望だとか、普段の自分でなくなる期間を極限まで最小化して死にたいという願望を医療機関介護施設や法律によって邪魔されてしまうのではないかと強く危惧してしているのである。

また、仮に妻がそういう状況になったとして、俺がそれを邪魔せずにいられるかということについてもまだ確固たる自信はない。

 

妻は働いているものの、俺個人はセミリタイア状態に近い生活をしており、健康で身体年齢は実年齢より若いと思うし、やりたいことをやりたい順番にやって生きてきたし、嫌な人とは一切関わらなくて良いので憎むべき対象もないし、マジで何も悩みがないし、これからも楽しい“GOODDAYS”が待ち受けていると思っている。

しかし、仮に急に重病が発覚して死期が迫っているとわかったとしても十分にやりたいことはやれたという思いでいるので、「生まれてきて良かった」と両親に感謝して死ねる。

「親より先に死んでも俺自身は十分に生きたと感謝しているし、今死んでも恨み節なしに死ねると思うからもし俺が事故で死んでも悲しまんでいいぞ!」と海外旅行に出る前夜か当日の空港で必ず電話で両親にそう伝えるようにしている。

また、終活というわけではないが、自分が死んだ時の事務的なことは妻と両親宛てに伝えてある。

とはいえ、子供がいない俺にとって俺が死んだ場合に唯一心残りに思うのは妻のことである。

 

なお、「やりたいこと」という概念に「目的の達成」という要素を入れている人にとっては何もやっていないに等しい俺の人生は全然ダメということになるが、俺は何もやっていない自分の人生を自分自身で肯定できているので、仮に人からそのように見られても何とも思わない。

人生は自己満足できるかということが全てなのだ。

 

下げたくない頭を下げ続けたり、やりたくない仕事を延々と続けたり、関わりたくない人と関わったり、認知症で自我を完全に消失したり、長年老年介護をされたり、老後になって長年闘病をするといったことをしたくないという願望が強く、そうするぐらいであれば寿命が縮まったほうがマシだと思っている。

なお、ハンディキャップを背負って生きておられて人々の介助なしに生活できない方々や長年闘病されている方々や長年介護を受けている方々を卑下するつもりは一切なく、これはあくまで俺個人の生き方に関する価値観である。

人によっては恐ろしい価値観だと思われるかもしれないが、俺の内心ではどうしてもそう思ってしまうのである。

 

ここで、新型コロナ禍と話を結びつけたいのだが、新型コロナ禍による院内感染で亡くなった方々のなかには、これ以上病状が好転しないであろうと思われ、かつ、無理な延命を本人が望んでいないのにも関わらず延命させられている割合はどれぐらいなのだろうか、実はその割合は少なくないのではなかろうかと邪推してしまっている。

「とにもかくにも責任を負いたくない」という理由で本人が望んでいないのに不自然に生かされている人々のことを不憫かつ残酷に感じる俺にとって、新型コロナ禍の死亡者にそのような方々が占める割合が多ければ多いほど、同じように悲しい出来事だとしてもまだ救いがあるように思う。

もちろん、新型コロナウイルスによる肺炎によって患者がとてつもなく苦しむという話もあるので、「救いがある」などと述べるのは不謹慎なのだが、そのことについて考えないものとするならばそう思ってしまうのである。

 

話は変わるが、首都圏と北海道の緊急事態宣言の解除はなされないようである。

安倍首相は「頼むから緊急事態宣言を出してくれ」という声が極限まで高まるのを待って緊急事態宣言を出し、「都内でも連日5人とかしか感染が確認されてないし、病床も空きまくりだし、院内感染の割合が多いだろ。いつまで医療のために他の産業を犠牲にするつもりなんだ」という声が相当レベルにまで強くなるのを待ってからの解除という展開を考えているような気がするが、そういう意味では策士というかなんというかという感じである。

でも、10万人あたり0.5人という指標に院内感染を入れて緊急事態宣言の解除を検討するのは素人の俺でもそのセンスに対して強い疑問を感じてしまう。

 

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