GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

ネガティブ情報の断捨離

悪いニュースを読み続ける現代病のことを「ドゥームスクローリング(Doomscrolling)」と呼ぶらしい。

少し前に、自分と関係ない情報に接して不快な気持ちになったり怒りの感情を抱くのはとても良くないことだと思ったのでネガティブな情報の断捨離をした。

その結果、情報量を減らしても何の問題もなかったし、社会への無用な怒りがある程度減ったように感じる。

 

世の中の人は「仕事」「自分」「家族(子・親・配偶者)」「社会」に対して分散的に関心を払って生きていると思う。

でも、子供がおらず、親も健在で、個人投資家とはいえトレード頻度が少ない俺は「自分」と「社会」の2要素にばかり関心を払うようになってしまい、それゆえにほとんどの人よりも社会に関する不要な情報を浴び続けてきたと思う。

定年退職後の老人と似たようなものなのだが、健康でエネルギーがある分、始末が悪いのである。

 

長らく、ニュースフィードのInoreaderを用いて日に500件以上のニュースの見出しに目を通してきたし、dマガジンで週に15冊程度の週刊誌や月刊誌を読み続けてきたし、Twitterには頻繁に目を通しているし、日に4時間分程度の音声コンテンツを倍速で聴いている。

情報の渦に溺れているという確かな感覚を自覚しながらも、どれも必要な情報に思えて断捨離できずにきた。

モノの断捨離は得意なのに情報の断捨離は大の苦手なのだ。

また、得た情報の多くは右の耳から左の耳に抜けていっているだけなのだろうが、ネガティブな記事を読んだあとの嫌な気持ちは心のどこかに残ってしまっていたのだと思う。

そして、先に述べた通り、「とても良くないこと」だと思ったので、ネガティブな情報だけでも勇気を出して断捨離することにした。

勝間和代氏はことあるごとにニュースダイエットを唱え、「ニュースを見ない習慣を!」と述べているのだが、そこまでは踏み込めないにせよ、俺にはある程度のニュースダイエットが必要だとは痛感したのである。

 

まず、目を通すニュースサイトは「Yahoo!」「NHK」「CNN」「ブルームバーグ」だけに絞った。

本当は本丸の「Yahoo!」を止めたいのだが、そこまではまだ踏み込めない。

悪の巣窟である「ヤフコメ」を読まないようにするだけで精いっぱいだ。

コラムに関しては釣り見出しばかりの経済サイトのコラムを閲覧するのを止めたいと思いつつも、そこには石ころだけではなく玉もあるだろうと思うのでそこまでは断てず、代わりに「文春オンライン」や「デイリー新潮」など、不毛な情報を垂れ流すサイトには一切触れないようにした(「Yahoo!」のリンクは別として…)。

 

dマガジンに関しては、「Newsweek」以外の総合週刊誌を読むのを一切止めることにした(今、嘘つきました。「SPA!」に目を通すこともあります)。

これまでかなり長いこと主要な週刊誌には全て目を通していたので、これは自分のなかでは極めて大きな変化である。

経済誌に関しては全て目を通すのを止め、興味がある特集の号のみ読むことにした。

「Casa BRUTUS」「ELLE DECOR」「クロワッサン」「家庭画報」「OZmagazine」といった好きな雑誌はこれまで同様に読むことにした。

 

YouTube Premium(広告無し有料プラン。YouTubeはほぼ聴くだけで映像はほとんど観ない)・Podcast・Voicyといった音声コンテンツは大好きなので全然断捨離できず、常にコンテンツに追われているのではあるが、ここでネガティブな情報に接することは少ない。

 

なお、テレビニュースに関しては、心の平静のためと、恣意的な編集映像に触れたくないので、昨年から一切観ないようにしている。

「大谷選手のホームラン映像が見たいな~」「相撲の取組をチェックしたい」「H3ロケットの打ち上げ失敗を確認したい」と思った時に能動的に検索をして観ることはあるが、受動的には観ていない。

余談だが、WBCは全試合を完全に観た。

 

本当はもっと減らしたいのだが、今しばらくはこれで様子を見ようと思う。

 

今日は親の結婚50周年記念日。

エイプリルフールではあるのだけど、本当の話なのです。

先ほど「親も健在」と書いたのだが、二人とも元気なままこの日を迎えられて本当に良かったなと思っている。

 

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3月20日の佃堀

 

月島川にて

 

妻の実家がある長野県上田市へ。上田城の枝垂れ桜

 

別所温泉にある安楽寺へ。国宝の八角三重塔

 

毎年恒例だった千鳥ヶ淵ライトアップを3年ぶりに見るとやはり感動する。個人的には東京で一番の桜景色だと思う

 

花粉症だけど、春の訪れに心華やぐ気持ちをそのままかたちにしたような光景。来年ももちろん行きます

 

アークヒルズにて。金ぴかの米国大使館をバックに…

 

東京ミッドタウンにて

 

六本木ヒルズにて

 

青山墓地にて

 

芝公園にて

 

増上寺にて

 

佃の河川敷にて。ランニングも楽しい

 

3月10日にオープンした東京ミッドタウン八重洲に今日出かけた

 

日比谷公園ネモフィラ。春を感じる

 

同様にチューリップ。たまらん

 

一人カフェ不適合人間

大富豪のひろゆき氏は日本にいる時にコンビニには行かないし、外出時には水筒を持参してペットボトルの飲料を飲まないそうだが、俺は平民だけどそこまでストイックではない。

ペットボトル飲料はエコでないと思うのでできれば買いたくないが、例えば15km歩くのに重い飲み物を持ち歩くのはしんどいので、喉が渇いた時にはコンビニや「まいばすけっと」や自販機で飲料を調達することが多いし、コンビニでホットコーヒーを買うことも多い。

 

その代わり、真夏以外の季節に一人では滅多にカフェに入らない。

真夏だけは涼む目的でカフェに入ることもあるが、そもそも真夏の暑い日には滅多に外に出ない。

コンビニでスイーツとコーヒーを買って公園のベンチに座って休むことと、カフェで休むこととの違いがほとんどないと思うからカフェに入る理由がない。

特にオープンエアのカフェと公園のベンチの違いはほとんどないと思う。

そもそも天気の良い日にしか外に出かけないし、外にいても辛くない服装で外に出るようにしているから外にいるのを苦痛に感じる頻度が少ない。

真夏だけは外にいるのが苦痛なので室内に逃げ込むことがあるが、それ以外の季節ではそうする理由がないということになる。

また、カフェのコーヒーやスイーツがとても美味しいのはわかるが、俺はコンビニのコーヒーとスイーツで十分に満足できるし、コーヒーはブラックしか飲まないというのもカフェに入る必要がない大きな理由になっていると思う(もちろん、キャラメルフラペチーノなども大好きなのだが、それは真夏のお楽しみ)。

 

世の中には時間をかけてコーヒーを飲む人もいるが、俺はどんなにゆっくり飲んでもコーヒーを飲むのに3分以上の時間をかけることができない。

また、机の上にコーヒーが入ったマグカップを置きっぱなしにして作業している人に憧れるが、俺には飲んでしまわずにいるのが難しい。

飲み物を少しずつ飲むという感覚があまりないので、例えばコンビニで500mlのダイエットコーラを買ったらそれを2分ぐらいで一気に飲んでしまい、その後2時間程度は何も飲まないといった感じが俺にとっては自然なのだが、妻はラクダでも見るかのような視線で俺を見る。

妻はコーヒーを飲む時にやたらと時間をかけて飲むし、しかも一度に少しずつしか飲まない。

しかも俺の辞書には絶対にない、飲み物を残すという行為におよぶこともある。

妻のようなタイプの人間にはカフェのようなスペースが向いていると思うが、俺のようなタイプには向いていない。

 

スイーツを食べる速度に関しても同様で、口の中にゆっくりと含んで味わってもケーキを食べるのに3分以上かけるのは至難の業だ。

そういうわけで、俺がカフェで席に座っても、数分で飲み物と食べ物が無くなってしまってすぐに手持ち無沙汰となる。

 

そして、俺にはカフェの机でするべき作業が何もないのだが、これこそカフェ滞在に向いていない致命的な要素であろう。

PCは家にあるし、図書館で借りた本も重いので家から持ち出すことがない。

本を買う時にはKindle版でしか買わないから基本的にはスマホで読む。

スマホを眺めるなら、電車の中だとか、ベンチに座って見たほうが都合が良いし、カフェに入ってずっとスマホとにらめっこしているのはどうも格好がつかないし、店に対しても申し訳ないなと思ってしまう。

カフェに座ってイヤホンをして動画を閲覧するというのはさらに不自然だし、動画を観るなら家で観ればいいだけの話である。

したがって一人でカフェにいてもすることが何もない。

ドラマとか観てて登場人物が大した用もなくカフェを利用している様子をよく見かけるが、ああいうのは俺にとってはかなりハードルが高い。

 

コーヒーがぶ飲みスイーツ早食い手持ち無沙汰野郎の俺がカフェに向いてないのはこれまで述べた通りだが、そもそも店員とコミュニケーションを取るのがかなり億劫だし、2人以上が待つ列に並ぶのは病的なまでに嫌だし、心理的パーソナルスペースが広いため、後で隣の席に人が座ってきたらものすごく落ち着かない気持ちになってしまう。

人と一緒なら目の前に話すべき人がいるし、食堂やレストランだったら目の前に食べるべきものがあるから隣に人が座っても追い込まれずに済むが、カフェに一人でいる時に隣に人が座ってきたらかなりの心理的圧迫を感じる。

カフェにはすばらしい内装やしつらえがあり、それはそれは魅力的な空間が演出されていることが多いのだが、この心理的圧迫によってそれらがかなり阻害されてしまう。

また、カフェでは決して安くない対価を支払う必要があるため、余計に苦手意識を持ってしまうのである。

 

カフェの他にバーというものも世の中に存在しているが、身体や心の健康のために飲まないソーバーキュリアスを超えて、そもそも酒を飲むことに何の意義も意味も感じない俺にとって、ジャズライブを聴くという目的でもない限り入る理由がない。

また、オシャレなカフェやバーというのは外から見てるとものすごく魅惑的に見えるが、いったん席に着席してしまうとその席からの光景しか見えなくなってしまい、大抵の場合は遠くから多角度的に眺めたときよりも景色そのものの魅力が落ちてしまう。

店は遠くにありて魅惑的なもの…ということである。

 

これは小売店に関してもいえることで、物欲がないから小売店で日用品や消耗品以外のモノを買うことは滅多にないのだが、街や店が賑わっている様子や人がモノを買っている様子を見るのはとても好きである。

そういう意味ではカフェも小売店も俺の感性を満たす舞台装置な役割を十二分に担っているといえる。

毎週末に妻と銀座界隈を散歩する際に、どこか(リンガーハットとかタイ料理屋とか)で昼食を食べて街や公園を歩くということ以外に、何も買わず、カフェにも入らないのにそれなりに楽しめるのはこれらの舞台装置としてのすばらしい機能のおかげなのであって、そういった点ではカフェの存在に対してとても感謝している。

カフェという甘美な装置を一人で利用するのが不適合な自分のことをとても残念には思うが、むしろその存在については強く肯定しているので不適合でも許していただきたい。

 

俺だって、一人で湘南に散歩に行った時とか海辺の素敵なカフェに入ってみたいと思うことが多いのだ。

もちろん、これまで述べたような理由で入ることができないのだけど、人と一緒ならば是非とも入りたいのである。

湘南の海辺でものを食べているとトンビに取られる可能性がかなりあるし…。

 

先週、熱海に行った時の写真です。

 

photos.google.com

 

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前回に湘南の写真を載せた際には不謹慎なので載せなかったのだが、左下の弁当を食べようとした女性2人組の弁当に対してトンビが猛攻撃を仕掛け、女性2人組はその場を立ち去った。その後もトンビは弁当にアタックを続けたが、ヘルメットを被った店の人がやってきてその弁当を片づけた

 

3月8日の浜離宮庭園

 

渋谷へ。行くたびに景観が変わっている。Shibuya Sakura StageのShibuyaタワーが出現している

 


新型コロナ禍の間、人が少なかった竹下通りも外国人が戻って来たこともあって元の姿に戻った