GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

穴口一輝さんのリング禍に際して思ったこと

人が生きて月日が流れる以上、常に亡くなられる人はいるのだが、今年は小澤征爾さんを始めとして驚くような訃報を目にすることが多い。

個人的に、前回書いた芦原妃名子さんと同じようにショックだったのは経済評論家の山崎元さんとプロボクサーの穴口一輝さんの逝去である。

 

ダイヤモンドオンラインの「山崎元のマルチスコープ」に最後の連載がアップされたのが12月20日で、山崎さんと後藤達也さんとの長時間の対談がYouTube動画のReHacQにアップされたのが12月28日だった。

12月20日に記事を読んで、28日に動画を観たのに、1月1日に亡くなられ、そのことを1月5日あたりに知ったのだが、あまりに急で頭が追いつかなかった。

ReHacQが収録されたのは12月2日だったと後で知ったのだが、とはいえ、わずか1ヵ月後の1月1日に山崎さんが帰らぬ人になった。

お亡くなりになる年齢が65歳と少し早かったものの、癌を患いながらも亡くなられる直前まで精力的に活動をされていたことを思うと、「ある意味、最高の生き切り方だな」と感じた。

 

穴口さんは昨年12月26日の日本タイトルマッチで敗れた後に意識を失って、開頭手術を行ったがその後も意識が回復せず、どうにか意識を取り戻して欲しいと毎日気にしていたのだが、2月2日に帰らぬ人となった。

穴口選手と堤聖也選手の試合はここ数年に観たボクシングの試合で最も感動した試合だっただけにショックが大きかった。

井上尚弥選手の試合はもちろんすばらしい試合しかないが、相手との力量の差が大きいため、感動というよりは驚愕する感じになってしまい、そういう意味では井上選手に申し訳なくも思うのだが、そういった観点で穴口選手と堤選手の試合の次に感動したのは、寺地拳四朗選手とカルロス・カニサレス選手の試合だった。

その寺地選手の試合も感動的だったのだが、穴口選手と堤選手の試合のすごさはちょっと群を抜いていたように思った。

 

日本タイトルマッチは10ラウンド制なのだが、9ラウンドまではポイント的に互角の展開だった。

穴口選手がダウンを取られた4・7・9の3つのラウンドでは堤選手が10-8で取り、他の6ラウンドでは穴口選手が10-9で取り(ただし、1名が5ラウンドを堤選手10点と採点)、ドローの状態で最終ラウンドを迎えた。

9ラウンドまでダウンを取られるシーン以外はほぼ穴口選手が試合を支配していた。

確かに10ラウンドのダウンは危なかったように思うし、1試合で4回のダウンというのはダウン回数が多すぎたと思うが、試合時間のほとんどを穴口選手が支配し、かつ、これほどの熱戦であり接戦になっている状態にあってレフェリーやセコンドが試合を止めるのは難しかっただろうとリング禍が起きた今でも思う。

バンタム級の日本タイトルと賞金の1,000万円を別に考えてもそう思う。

もちろん、結果的には止めなくてはならなかったのだから、俺自身、そういった認識を持ってしまったことを反省しなくてはならないと思うし、このリング禍が今後のボクシングの安全性向上のきっかけになって欲しいと願うのだが、それはある意味きれいごとでもある。

どうやったってお互いが全力で殴り合うボクシングには危険が伴うからである。

 

総合格闘家青木真也選手が「年間最高試合が死亡事故なのはその競技を疑わざるをえないと思うんですよね」とXで述べたのに対して、井上尚弥選手は「年間最高試合に選ばれたのは穴口選手へのエールでもあったと思います。 受賞された40分後に息を引き取ったと聞いてますので皆さんには誤解だけはして欲しくないと思います」と答えていた。

確かにあの試合は最高の試合だったのだけど、選手が意識不明になってずっと意識が戻らないままの状況にあって、しかも、仮に意識を取り戻したとしても開頭手術をしたことによって二度とボクシングのリングには立てなかったことを考えると、賞を与えるのが適切だったとは言い切れない面もある。

しかし、仮に穴口さんが意識を取り戻したと考えた場合、井上選手が述べた通り、その賞の存在が穴口さんの今後の人生の糧になると考えることはできたのではなかろうかと思う。

しかし、現実は最悪の事態に至り、受賞からわずか40分後に穴口さんは息を引き取られた。

 

青木選手は2月15日にアップされたNumberWebインタビュー上で「格闘技がメジャーになる必要はないし、なるわけないと思ってます。むしろ僕の倫理観の中では、これがメジャーになるようではヤバいなと。ボクシングも含めてね。相手にダメージを与える、相手を傷つけることを勝利の条件とするなんて、他のスポーツとは次元が違いすぎる」と述べているのだが、俺も完全に同じ考えである。

格闘家が事あるごとに「勇気を与えたい」「格闘技のすばらしさを伝えたい」「格闘技を盛り上げたい」などと発言することがあるのだが、本当はこんな危険で野蛮なものはメジャー競技になるべきではないと思う。

安全性を徹底的に追求したアマチュアスポーツとして発展するのは良いが、KO至上主義、かつ、それゆえに薄いグローブをつけてヘッドギア無しで行われるプロスポーツは必要悪として楽しむ、背徳の競技であり娯楽なのだと思っている。

愚行権の最たるものと言って良いかもしれない。

しかし、メジャー競技になるべきではないと述べながらも、格闘技人気が盛り上がるとうれしいし、勝者が大きな栄光や報酬を得ると格闘技ファンとしてたまらない気持ちになる。

矛盾しているが、両方の感情を持ってしまうのだからしょうがない。

俺の愚行権の行使ということで許してもらうしかない。

いかなる暴力も犯罪とされる現代社会において、格闘技は合法化された暴力であり、「なんでこんなことが許されてるの?」と思えるほどに背徳的な愚行ともいえるからこそ最高に興奮するのである。

 

俺は国でも背負っていない限り、チームスポーツを観てもあまり楽しめない。

誰かが恣意的に作ったチームを応援する意義を見出すのが難しいからだ。

勝っても負けてもどうでもええわと思ってしまうのである。

もちろん、美しいプレイを観た時には感動できることもあるが、スポーツは個人スポーツのほうがずっと興奮できる。

その中でも、疑似的な命のやり取りをする格闘技には興奮する。

命のやり取りだから背徳感を抱きつつも興奮するのだ。

 

堤選手は2月19日に行われた、2023年度年間優秀選手表彰式において、穴口さんのことを追悼しつつ、「彼との試合だけじゃなく、人生のつぶし合いだと思ってボクシングをやっているから、これまで戦ってきた人それぞれに思いがある。これからは僕の拳、人生に彼の思いが乗っているので、全て覚悟したうえで、僕のスタイルのボクシングを見せていきたい。世界は必ず獲ります」と覚悟を語った。

堤選手こそ穴口さんが逝去されたことを深く悲しんでいるだろうに、それでも敢えて口にしてみせた「人生のつぶし合い」という言葉の重さは、ちょっと他のジャンルのスポーツで例えるのが難しいほどの重みを感じる。

だから「〇〇のボクシング」という比喩が存在するのだと深く納得させられる。

 

なお、井上選手は日頃の言動から、ボクシングという競技の危険性について認識しつつも、ボクシングをどこまでもスポーツでありゲームととらえているようで、命のやり取りだとか「人生のつぶし合い」と考えているふうには見受けられない。

それでも過去をさかのぼっても日本ボクシング界でベストの選手であり続けているのだから異次元の存在であり続けているのだと思う。

 

ところで、20年前に始めた本ブログの序盤のメインコンテンツは格闘技ネタだったともいえ、過去に102回も格闘技について書いているのだが、19年前に書いた以下の内容と今の考えは全く変わっていない。

 

gooddays.hatenablog.jp

 

そして、こちらでは、井上尚弥選手のようにボクシングをスポーツとして捉えていて、敗色が濃くなると簡単に試合を棄権する傾向にあるヨーロッパのボクシング文化について述べている。

玉砕覚悟の日本人と他の文化圏の考え方の違いから学べることは多い。

 

gooddays.hatenablog.jp

 

晴海埠頭公園では河津桜が満開でした

 

TOKYOモニュメントもほぼ完成してました