GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる48歳仙人のつぶやき

独り言でのエア演説でもしなきゃダメかな?

何度も述べているが、料理・掃除・運動・散策などをする際には常にYouTubePremiumやPodcastやVoicyを聴いているので、1日に数時間は人の話を倍速で聴いて生活をしている。

また、巡回するネット記事量はすさまじいし、ほぼ2週間ごとに図書館で本を借りているので読書量も多いほうだと思う。

言いようによっては、そうやって膨大なインプットを得ているはず…ということになる。

しかし、「膨大なインプットがあるなら、話し手と同じように何かの話をしてみろ」と言われた場合、相当な準備をしたとしても絶対に無理だと思う。

だから話し手の方々はすごいな~といつも思うのだ。

 

そもそも俺はあまり知らない人とのたわいないスモールトークが苦手だし、パーティーの類も苦手だし、複数の人に向かって話をするのはもっと苦手だ。

音声で何かを発信しようという意思がないので張り合うつもりもないのだけど、「それにしても話し手の人は何故に内容のある話をし続けられるのだろう?」といつも思う。

そりゃ、そういうのが得意な人の話を聴いているからそうなのだろうが、書くというならまだしも、話すというかたちでアウトプットをするのはとんでもなく難易度が高いと思うのである。

 

特に毎回趣向を変えてお笑いトークをし続けられる人はマジですごいと思う。

お笑いではないけど、例えば週刊SPA!の「みうらじゅん×リリー・フランキーグラビアン魂」における両氏のトークの引き出しの多さは尋常ではない。

達人中の達人になると即興であそこまで変幻自在に多彩な語彙を駆使できるのか…と驚愕する。

そもそも俺が女性の水着グラビアに興味がない(どれも同じに見えるため)というのもあるが、仮に「水着グラビア写真を見ながら何かを話しなさい」と言われたら、貧弱な語彙しか浮かびようがないのだけど、両氏はもはや何年やっているのかわからないぐらい長い期間、この対談を毎週続けているのである。

dマガジンで週刊SPA!を読む際にグラビア写真はろくに見なくても思わず対談文を読んでしまうことが多い。

 

とはいえ、俺個人は、自らの精神に真の余裕がないためなのか、すぐに利を求める卑しさがあるからなのか、笑いそのものを目的としたお笑いトークを聴くことにあまり意義を感じない性分で、実際に聴くのは常に何らかの学びがある話ばかりである。

無から有を生み出すお笑いトークほどにはすごくないとはいえ、途中で詰まったりせずに、世の中の出来事などについて他人に学びを与える話ができる人というのは本当にすごいと思う。

しかもネタ切れを起こさずに毎日更新し続ける人が世の中に数えられないほどいらっしゃることに驚く。

 

ネタを用意するのも大変なら、ネタがあったとしても準備段階で話す内容の何倍ものインプットをして、それを完全に自らの血肉にしてしまえるほどの理解を得ていないと、順序立てて話ができないだろうし、途中で詰まってしまうだろうし、話に熱や説得力を持たせることができないはずである。

もちろん、場数を踏んでトークスキルを上げることができたならば多少のごまかしも効くようになるのかもしれないが、この域に達するには相当な鍛錬が必要だろうし、その域に達しても確実なインプットをせずに話をするのは難しいだろう。

俺個人が話の達人と思っている辛坊治郎氏は頭で「今日の夕飯何にしようかな?」などと話と全く別のことを考えながら講演ができるとおっしゃっているのだが、辛坊氏レベルになればそのような芸当すら可能になるのだと思う。

とはいえ、一般人が辛坊氏のレベルに達するのは無理だ。

 

この文章だって、途中で順番を並び替えたり、「てにをは」を書き換えたり、内容を足したり引いたり、校正したりして、結構時間をかけて読むに堪えうる文章に仕上げていっているわけで、友人とのLINE上にテキトーに書くような文章ならともかく、頭から書いていった文章をそのまま読むに堪えうる文章にするなどといった芸当は俺に関しては絶対に不可能である。

ましてや、話すというのはそれよりも難しい行為である。

書くのは自分のタイミングで中断可能な野球のような感じで、話すのはノンストップで続くサッカーのような感じだと思うのだが、話すという行為の難易度の高さは書くという行為の比ではない。

 

仙人生活をしている俺の無駄な知識の蓄積量は相当なものになってしまっているはずなのだが、淡泊かつ曖昧な知識が脳内に別々に存在している状態になっている、もしくは知識が入っても残らずに忘却してしまっているため、自分の言葉で何かを語ってみろと言われても本当に難しく、そのことがとてももどかしい。

もどかしさゆえに、普段、頭の中で考えるだけの内容を口にしてみるというか、一人で散策をしている途中で何かのテーマについて誰にも聞こえない声でブツブツと語ってみることはあるのだが、見事なほどにすぐに詰まるし、話すべき内容を余さずに順序良く話すことが全くできない。

話しながら次に話すことを考えるのが難しいし、内容を完全に理解して語るところまで知識が体系的なものになっていないと話しながら気づいてしまうし、ふと出てこない言葉の多さにも愕然としてしまう。

 

そんなわけで、「自分の言葉でアウトプットできないということは、きちんと理解できていないということと等しいのだろうか」という問いがこのところ自分の頭の中をもたげている。

演説形式ではなく、人に聞かれたことに対して返答するというような形式ならば話すこともできなくはないと思うのだが、それでも途中で検索したりすることなく、自信を持ってきちんと自分の言葉にすることができるかといえば不安が残る。

そんなわけで、「人前で話をすることはないにせよ、物事に対する理解をあやふやなものでなくするために、独り言でのエア演説が必要なのかな~」と思ったりする今日この頃である。

 

11月1日。みなとみらいの夕暮れ

 

逆方向から東の空を見ると巨大な雲が美しく照らされていた

 

毎年恒例となっているが、会津若松で農業を営む友人宅に5日間ほど遊びに行った。日中は柿もぎの手伝い。気持ち良い気候のなか、黙々と柿をもぐ作業をしているとなんともいえない充溢した感覚を得られる

 

只見川をドライブ。まさに撮らんとする撮り鉄の方がいたので…

 

ちょっと様子を見てたら、直後に列車が通り抜けた

 

只見駅に行くとその列車が停車していた。1日に4本しか走らないが、長い時間停車していた

 

只見ダム

 

只見ダムから上流に田子倉ダムが見える(拡大画像)

 

田子倉ダムからの景色。只見ダムは極小サイズで見える

 

こちらも田子倉ダムから

 

11月8日の浜離宮庭園のコスモス。菜の花を植えるために13日に伐採

 

御茶ノ水付近を歩く。ニコライ堂こと東京復活大聖堂

 

聖橋から丸の内線が交差する様子を見る

 

七五三が近い時期の湯島天神。学業の神様だけあってすごい量の絵馬

 

数年ぶりに多摩よこやまの道を歩く。若葉台京王堀之内まで歩くが、この道は本当にすばらしい

 

国士舘大学の近くの土地を宗教法人世界平和統一家庭連合が購入していたようで、研修施設を建てるために元からあった工場を取り壊していた