友人らとのLINEでは気にかけずに思ったことをバンバン述べるが、それでもコミュニケーションで気をつけていることがある。
それは、決して相手の話を盗まないようにするということであり、相手の話に対してきちんと答えてから自分の話をするようにするというあたりまえのことである。
グループLINEでは暇人の俺が思いつくままにバンバン連投することが多いが、実際に人と会話をする時には人の話を決して盗まないよう気をつけ、話すことよりも相槌を打って聞くことや質問することを重視するようにしている。
SNSの世相がそうなのか、SNS抜きに昔から世の中がそうだったのかは知らないが、最近、ひとつの事象に対して事象そのものではなく、それと違うことが話題の中心にされることがあまりに多すぎやしないかと感じる。
たまにヤフコメなどを見ると、その記事の話ではなく、いつの間にか記事と関係ない話や自分の身の回りの話を話題の中心に据えて書く人が多すぎることに愕然とするのだが、こういった人々だけではなく、社会全体でもそういった流れが強まっているように感じるのだ。
前置きが長くなったが本題に入る。
安倍晋三氏暗殺事件はあくまで暴力を用いた怨恨事件、もしくは主権の束を背負った元総理大臣の抹消を画策した国家反逆的な大犯罪でしかないのに、衆愚的なSNSはともかく、マスコミや野党の視点が完全に旧統一教会に向いてしまっている。
これなどはまさに会話泥棒的な流れの好例である。
旧統一教会にばかり目を向ける人は国民としての当事者意識が欠如しているというか、自分たちの主権が脅かされたという認識もないのだろう。
確かに旧統一教会の被害者は政治と法律の力で救済しなくてはならないし、旧統一学会と政治との間に不適切な癒着があるのだとすればそれは検証して正していく必要があるだろうが、今そこを騒げば騒ぐほど山上徹也容疑者の蛮行を肯定する面があるということに気づかないのだろうか、マスコミや野党の気は確かなのだろうかと思う。
騒げば騒ぐほど、山上のようにやれば世の中を巻き込むことができるのかもしれないというヒントを与えているようなものである。
こういった展開になって山上はまんまとほくそ笑んでいるに違いないし、模倣犯が出ないかと心配になる。
ここまで話が本筋からそれていくと、まさか唯一の情報発信源である奈良県警を責めると彼らからリーク情報を貰えなくなるからマスコミは奈良県警ではなく統一教会に視点をそらしているのではあるまいな…とすら思う。
それにしても、無茶苦茶な三段論法によって自らが被害を受けても同じような考え方をするのだろうかと呆れずにはいられない。
念のために申しておくが、俺個人は統一教会を嫌悪しているし、日本人をバカにしたような教義を有している点については特に許せないと思っている。
以下は、7月29日から31日まで蓼科方面に行った際の写真です。
気温22度の世界は最高でしたが、また戻りたくて困っています。
泊まったホテルから見た車山の様子