俺は儒教的なものが何から何まで嫌いである。
そもそも俺は宗教を完全否定しており、結婚制度や家制度も俺独自の考えで否定している。
そういった考えを押し通すと、儒教的な上下関係は完全に否定すべき存在となる。
でないと自分の中でどうしても筋が通らないのである。
「男と女」「親子」「兄弟」「先輩と後輩」「先生と生徒」「契約に基づく指揮系統は別にしての上司と部下」「売り手と顧客」の全ては完全に対等という原理原則が自分のなかに一貫してある。
先に生まれた親が子に「孝」を説く、先輩が後輩に「礼」を説く、上司が部下に「忠」を説くことにエゴを感じずにはいられないのだ。
それによって社会が円滑に運ぶことも、それが日本人や日本の組織にとって大きな強みとなっていることも理解しているが、俺は嫌いである。
したがって、年下の人間・部下・後輩・青少年と対等に接さねばと強迫観念的に思うところがあって、敬語で話すか、親しみを込めたタメ口で話しつつ、絶対に上から目線にならないように気をつけている。
そうでないと相手の人権を軽んじることになると思うからである。
それだけに、年齢や先輩後輩や地位を理由として、初めから偉そうにしている人を見ると邪教である儒教の悪い面に侵された人だと思って敬遠してしまう。
簡単に言うと、オヤジな人種や先輩面する人種は何よりも品がなく思え、嫌いに思えるのである。
もちろん、年上の人間とは対等に接さねばと思っているのだが、実際はそうしたほうが楽なこともあって敬語で普通に話す。
そして、敬語ほど邪魔なものはないというぐらいに敬語があることが嫌いである。
俺に年下の友人は多いのに、年上の友人が少ないのはこのあたりの考えによるところが大きいと思っている。
こうした俺の考えを押し通すと、未熟な子供、もしくは若者の子供じみた行動を注意という行為ですら対等な目線で行わないわけにはいかなくなり、「叱る」というニュアンスで相手と対峙することはあってはならないこととなる。
最近、地位が上にある人間によるセクハラのニュースが多々出ているが、地位を利用しているという部分が何よりも許せない。
口説くのであれば地位に寄らない自分個人の魅力によってのみ行うべきである。
地位を利用する人間は地位で人間の価値を判断する最低な人間であるわけで、個人的にはそういう人間を相手にしたら、地位も何もかも投げ捨てて全力で戦いたいと思うのだが、運良く、俺はそういった手合いと出会ったことはない。
体育会のような人権蹂躙組織を社会が平然と認めてしまっているように、社会の根底に人間平等の意識がないからこの手の勘違いを起こす人間がいなくならないのだと思う。
ところで、このように言って相手の対応が変わることはないのだが、俺はコールセンターの人があまりにかしこまって話していたら、「人間は対等、売り手と顧客も対等なんだからもっとフランクに話してもらいたいです」と言うことにしている。
そして、電話でそう述べる俺を見るパートナーの目は実に冷ややかである。
相撲や芸能人のような世界で「礼儀・礼節」という言葉が出るのにも反吐が出そうになる。
相撲には横綱のふるまいなどに神道の影響を受けた独自の文化があって、それによって独特の威厳を保っている。
仮に、全員が単なる太っちょアスリートでしかなくなったら客は力士を「お相撲さん」と思わず、「太っちょ力士」としか思わなくなり、興業が振るわなくなるのだろうと想像するから、勝手に品格遊びをどうぞと思っているが、個人的には文化的な部分については根底からバカバカしいと思っている。
「土俵入りだの仕切りだのくだらんことをせずに、世界から相撲自慢の太っちょを集めてワンデートーナメントで誰が最強か決めればいいじゃん」と思うわけだが、それでは儲からないとわかっているからそれがベターとも思えないものの、礼儀・礼節など噴飯ものとしか思えないのである。
でも、正直、儒教的なものが嫌いすぎると日本社会では苦労しますわ。