GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

絶対基準でポジティブな平成

平成を振り返るということは単に直近の30年間を振り返るということにすぎないわけだが、せいぜい50歳以上の人でないと大人としての感覚で振り返ることができない。

また、30年という期間は個々の人生を振り返る期間として考えるには、その長さが占める割合があまりに大きすぎる。

俺の場合だと、小学校卒業寸前から今までということになるわけだが、それを一つの単位として総括することはほぼ人生を総括することに等しい。

 

したがって、「平成を振り返る」といっても個人として振り返ることにはあまり意味がなく、個にとっての30年史というよりは、世界だとか日本にとっての30年史という視点で振り返られるべきことなのだろうと思う。

 

平成元年がバブルのピークだったこともあり、平成の総括として、世界経済における日本経済の占めるプレゼンスが激減したことを悲観的に回顧する文章を目にすることがやたらと多い。

しかし、結局のところ、国民の暮らしが全体的にどう変わったのかという視点で考えると「すごく暮らしが進歩した」というのが多くの人にとっての第一の感想ということになるのではないかと思う。

なお、他の国が日本よりも数字上で豊かになったとしても世界中の人々の暮らしを逐一確認して回ることなどできるわけがないし、そもそも個々にとって知りもしない周辺のことなど雑音のようなものでしかない。

人類の暮らしは、平成以前も進歩し続けたが、平成に入ってからもどんどん便利・快適・清潔な方向に進歩し続けた。

それが世界中の人々の努力やイノベーションによって実現していこうと、日本人の努力やイノベーションで実現していこうと個々にとっては大したことではないはずである。

 

そう考えると、30年前と今を比べて個々にとってネガティブな要素なんてほとんどないのではなかろうかと思う。

少なくとも30年前の暮らしに戻りたいと思う人はいないだろうと思う。

 

この30年を振り返って、世の中の光景をガラリと変えたのは携帯電話とインターネットであると思わない人はほとんどいないだろう。

また、30年前の1万円と今の1万円を比べると今の1万円のほうが何倍もの絶対的価値を生み出している。

デフレのせいという負の要素もあるが、断然、イノベーショングローバリズムのおかげでそのようになったわけである。

インターネットからタダで情報を手に入れることができて、月額400円で雑誌が読み放題になり、同じく月額500円で映画は観まくり、曲も聴きまくれるようになった。

また、何といっても、株式や為替を電話ではなくWEB上で売買できるようになったわけで、祖父や親父が日経新聞を見ながら短波ラジオを聞いて、証券会社に電話して発注していた頃とは隔世の感がある。

モノや食に関しても、ユニクロニトリや100円ショップや100円の回転寿司が日本中に普及しているし、昭和末期にステータスシンボルだったクルマなんて、環境負荷と費用を考えると大都市住民にとってはむしろ所有することのほうがダサいとすら思えるようになってしまっている。

 

昔の自分が今の暮らしを知ったら夢のようだと思うに違いなく、逆に今の俺がバブル時代の派手な映像を見てもこれっぽっちもうらやましいと思わない。

タバコの煙がもうもうで、排気ガスも臭くて、年上の男がやたらと威張っていて、見栄や体裁や世間体が大切にされ、クルマだとか衣類にカネをかけることが良しとされる価値観が跋扈する時代をステキだと思うはずがない。

インターネットおよびSNSの浸透による負の効果は人類に余計なストレスを与えているが、インターネットは口に発さない人々の心の奥底を映す鏡といえるような存在であり、それを見るのがストレスの素ならば見なきゃいいだけの話である。

でも、多くの人は怖いもの見たさにそれを見ることを楽しむわけで、むしろ、それがない生活など考えられないという有り様である。

 

電気・上下水道・ガス・電話といったライフラインを別に考えると、テレビ・クルマ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンなどが昭和の大変化と呼ぶならば、平成の大変化は携帯電話とインターネットに尽きるわけで、スマホだとかSNSだとかキャッシュレス決済だとかいうのはそれと比べると小粒なわけだが、これから相当な大変化が近い未来に起こると多方面に置いて予測されているわけで、まだまだ世の中が大きく進歩していくというのだからすごいと思う。

 

なお、平成の大変化にウォシュレット様を入れなかったのには訳があって、俺が今の実家に引っ越したのは5歳の頃だったと思うのだが、洋・洋・和と3箇所あるトイレのうち、なんと片方の洋式トイレに初期型のウォシュレットがついていたのであります。

 

五右衛門風呂とボットン便所の賃貸のオンボロ小屋からウォシュレットのある家に引っ越した時はその違いに相当な衝撃を受けたのだが、競売で手に入れた家だったこともあり、頼まないどころか存在すら知らなかったオーバースペックな装置がついていたのでありました。

俺は小学生の頃は何故か、和式トイレを愛用していたため、ウォシュレットは用いていなかったのだが、平成になる中学生頃にこの文明の利器を用いるようになり、黄門様は虚弱化・退化の一途を辿ったのでございます。

というわけで、ウォシュレット様が普及していない日本以外の国々はまだ昭和から脱していないとも言えましょう。

 

それと、さっき、五右衛門風呂と書いたけど、マジで母ちゃんが薪をくべて風呂を沸かしていたのであります。

笑っちゃうけど昭和30年代ではなく、昭和50年代の話であります。

それに比べると、今は夢のような時代であると言えましょう。

 

さらに余談。

さっき、小学生の頃に和式トイレを愛用していたと書いたけど、当時、「ファミコン通信」という雑誌の「ゲーム帝国」に投稿するのが好きで、何度かネタを採用されたのだが、ある時、「便所は和式に限る!」とハガキに書いて投稿したら、帝国の「総統」から「よいよいよいよい(残響音含む)」とお褒めの言葉をいただいたのであります。

 

天橋立にて

 

これでも丁寧な言葉遣いと所作を心がけている

前回、「男が女のような話し方をする標準語について」という内容で述べたが、どちらかといえば本ブログでは男らしさというものを否定することのほうが多い。

 

それなのに前回、俺は標準語を「女のような話し方」と言い切った。

確かに、人は男女である前に個々の人間として捉えるべきであり、個々がジェンダーに縛られることを積極的に支持できないのだが、俺個人は、家では座ってしているもののできれば小便は立ってしたいし、どうしても俺という一人称を使いたいのだから仕方ない。

なお、本ブログの一人称は当初は「私」だとか「オイラ」にしていたのだが、10年ぐらい前から、読み手に明らかな違和感を与える、かつ、好感度は下がるとわかっていても、「俺」という一人称で通したくなったので「俺」の一人称で通すことにしたのである。

 

前回も述べたが、俺がうちのご主人と話すときに標準語だけでは自分の感情のニュアンスを完璧には表現できないと考えるがゆえに田舎臭い故郷の言葉を用いる。

「わかんない」ではなく「わからんもん」、「俺、バカだ」ではなく「俺、バカやわ~」でないと俺のニュアンスを正確に伝えきれないのである。

 

話を戻すが、世の中で言う男らしさというものに対して俺は基本的には肯定的な立場を取らない。

昔の世の中では任侠モノの映画が支持され、寅さんのような人間を理解してあげられる、ある意味寛容な世の中だったが、今の世の中では背中で語る男や、つっけんどんな男や、ガサツな男や、寅さんのようなウザい男は支持されない。

今の世の中では誰に対して話すにしてもタメ口より敬語のほうが便利だし、タメ口を使うにしても丁寧なタメ口を使うことが求められている。

その流れについて行けていない人は勘違いしている人として疎まれ、後々さびしい思いをすることになるわけである。

 

近頃は小学校で小学生同士で「さん」づけをさせることになっていることに違和感があるという声も出ているが、俺はそれに対して待ったと言いたい。

実はこの俺自身、何年か前からほとんどの友人を「さん」づけで呼ぶようにしているのである。

あだ名でしか呼ばない友人に対してはさすがにあだ名で呼ぶが、それ以外の友人に対しては昔からの親友であってもある時から「さん」づけで呼ぶように変えたのである。

特に年下の友人には絶対に「さん」をつけるようにしている。

「さん」づけをしてくだらない冗談を言っても困らないし、「さん」をつけることで相手を尊重して扱えるようになったなあと感じている。

なお、「おまえ」という二人称も名前で呼べば使わずに済むので、今更急に言葉遣いを変えるわけにいかない弟以外の人間に対しては使っていない。

まあ、うちのご主人と小競り合いになった時には使うけど…。

また、「くん」づけをするのも甥っ子など子供に対してだけである。 

 

さて、本題に入るのだが、俺はできるだけガサツな言葉遣いをしないように気をつけているが、それ以上に「所作」には気をつけている。

歩くときは背筋を伸ばして頭の上に何かを乗せているように歩き、歩くときは細く長く鼻でゆったりと呼吸をするようにし、笑顔とまではいかずとも口角は上に上げるよう心がけているつもりである。

モノを扱うときには可能な限り丁寧に扱い、ジェスチャーをする時には指の先まで意識を通わせているつもりである。

優雅とまではいかずとも、所作さえしっかりとしていれば言葉を交わさなくても相手に良い印象を与えることができるわけで、所作ほど雄弁なものはないと思うからである。

 

俺が所作に気をつけるきっかけとなった要素が二つほどあるのだが、一つは田舎者であるがゆえ、もう一つは、世界を旅してきたがゆえである。

幼・小・中・高と県で一番良い学校に行ったことだとか、中流以上の家で育ったというような、一般的に「育ちの良さ」と言われるような要素はどちらかといえば俺に反抗心を抱かせる方向に働いたのだが、上京して、自分がド田舎者であるという自覚を持ったことは自分の所作を改善させるうえで大きな要素となった。

また、過去の旅行記を引用すると以下のような所感を述べているのだが、日本人の所作の美しさに感銘を受けたというのも自分の所作を改善させるうえでかなり大きな要素となった。

 

そもそも飛行機会社にあまり期待なんぞしていないし、たまたまそうだったのかもしれないが、今回乗ったエミレーツ航空の4つの便に関しては乗務員の態度はどの便も全体的にガサツすぎるような印象を持った。

例を挙げれば、着陸前に回収する毛布やヘッドフォンをひったくるように回収する所作や、飛行機が揺れた際に僕の膝に水をこぼしてもろくに詫びもなく、座っている乗客に何度も尻をぶつけておいて一言もないことなどである。

セクシー尻をぶつけられた僕が礼を言うべきだと言われればもしかしたらそうなのかもしれないし、悪印象を持ったというわけではないものの、こういった所作のガサツさは国際的には標準に入る部類なのだろうが、日本人としてはガサツと感じざるを得ないだけの話だし、外から見て日本という国のどこが最大の長所かといえばこのガサツさがない、もしくは弱いという点ではないかという思いを海外に行くたびに強くしているぐらいなので仕方ない面もある。

 

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ウィーンは物価が高いこともあり、また、ホテルの前にあったので、スーパーを何度か利用したのだが、日本以外の国ではありがちではあるが、レジでふんぞり返ったおばさんが人が購入した商品を放り投げるように扱う。

チップ大嫌い人間でありながら、こういう光景を見るにつけ、「やっぱ、チップをもらわないところではこうなるのかな~」と思うとともに「日本人の真面目さ、所作の美しさというのは世界に冠たるものがあるよなあ~」と海外に出るたびに抱く感想をまたもや抱く。

 

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なんとも冗長になってしまったが、丁寧な言葉遣いをするうえで、標準語は便利だし、訛りの抜けぬ田舎者の俺でも所作に気をつけるようにすることで相手に良い印象を与えられると思っているので、一応は心がけるようにしてますよという話でございました。

 

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千鳥ヶ淵