GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

男が女のような話し方をする標準語について

西日本の人間ならば、一度は「東京では男が女のような話し方をしている」と思ったことがあるのではなかろうかと思う。

24年前に上京した時、男が「そうだよね~」「そうかもしんない」「違うよね」「わかんない」などと話しているのを聞いて最初は気持ち悪いとすら思った。

しかし、当初は抵抗を覚えていた俺もこれだけ長い期間にわたって東京に住んでいるとすっかりこのような“軟弱”な話し方をするようになってしまった。

とはいえ、頭の中ではいまだに宮崎弁で考えているし、うちのご主人と会話する時も半分は宮崎弁だ。

それどころか、ほぼ標準語を話す長野県出身のうちのご主人もところどころで宮崎弁の語彙を用いるように“進化”している。

 

少し話題を変える。

長らく東京に住んでいるのでこれが東京ならではの現象なのかどうかはわからないが、店の中などで近くで話している夫婦の会話を聞いてしまう際に、まるでお互いが赤の他人に話すような配慮を見せた会話をしているのを耳にすることがたびたびある。

先に、東京では男が女のような話し方をしていると述べたが、未婚のカップルとならともかく夫婦なのに、まるで女性の友人同士がお互いに気を使いつつ話すような話し方で話しているのを耳にして強い違和感を抱くことが多いのである。

 

俺だったら「そげなもん知らんわ」「大変やったな~」とでも答えるところを「そうだね~ちょっとわかんないなあ…」「大変だったね~」などと答えているし、話している内容も白々しい印象を受けたりするわけだが、「その話し方でどうやってギャグをかませるのか?」「一生、最愛の人とその話し方で突っ走るのか?それでいいのか?」などといらぬ心配をしてしまう。

「屁が出るわ!」だとか「クソやな~」と言う代わりに、「屁が出ちゃう!」だとか「クソだね~」と言うのかも知らんが、そこまで行けばある種のプレイといえるかもしれない。

 

標準語が他人行儀な話し方にさせるのか、たまたま他人行儀な話し方をする人がいた時に俺のセンサーに引っかかっているだけなのかはわからないものの、12年前に俺が初めてうちのご主人を宮崎に連れて行った際に、ヤツが良い意味で?衝撃を受けたと述べた出来事があったのだが、以下に述べるフレーズは標準語を使っていてはなかなか繰り出しようがないフレーズだったのではなかろうかと思う。

 

県庁の近くの物産館の地鶏売り場で、客に地鶏を薦めていた50代ぐらいの女性店員に「どれがオススメですかね?」と聞いてみたら「食べたことないからわからん」と実に率直な回答があった。

タメ口返答だったとしても、宮崎弁で言われると憎めない雰囲気を醸し出すのだが、もし、標準語で「食べたことがないのでわかんない」とタメ口で言われたらかなりの違和感があったのではなかろうかと思う。

 

また、県で随一のホテルのロビーで、勤め始めて間もない年齢と思われる若い女性店員に「温泉には手ぶらで行っても大丈夫ですか?」と聞いたところ、「大丈夫です。あっ!でも、替えのパンツはお持ちください」と間の抜けた返答があった。

少し照れたような、かつ、遠慮がちな言い方だったが、これも完全な宮崎訛りのイントネーションだったから「あたりまえやがな!」だとか「えらい素朴な回答やな」とおかしく思った程度だったのだけれど、もし標準語でこのように答えられたら相当な違和感を抱いたのではなかろうかと想像する。

 

関西の人などは特に標準語に気持ち悪さを感じることが多いと聞くが、確かに標準語で生活するということはビミョーな感情の吐露に難しさを覚えなくもないと思い、俺もいまだに生まれ育った地の語彙や言い回しを捨てきれずにいる。

そもそも昔の東京では江戸っ子が使うような男らしい言葉が話されていたのだろうと思うし、夏目漱石の「坊ちゃん」を読んでも実に男らしい話し方をしているわけで、時代を経て今のような標準語が首都圏で話されるようになったのだと思う。

しかしながら、このまるで男が女のような話し方をする話し方で話すと、攻撃的な気持ちになることをかなり抑制されるとは常々感じているので、そういう意味では標準語は首都圏の社会を円滑にしているのではなかろうかとは思う。

 

というわけで、男が女のような話し方をする標準語にはどこか使いづらいところがある代わりに、社会を円滑にする効果は確実にあるのだろうなと思うのである。

宮崎弁はかなり田舎臭いイントネーションでカッコ悪いと思うのだけど、それでも、俺は一生、完全な標準語をマスターすることはないだろうと思う。

 

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幸手権現堂桜堤

 

フェイクとファクトと言論の自由

多くの言論が行き交う世の中だが、一つの事象に対して真逆の意見が行き交っていて、どちらがファクトか判断しかねる事例が多すぎる。

俺は報道機関のようにきちんとファクトチェックを行う必要性がある立場にはないが、後になって明らかに間違っていた内容を述べていたということがわかるような文章を書き残したくないと思っている。

だから、真逆の意見が行き交っている場合にはなるべく自分の意見を断定口調では述べないように気をつけているつもりである。

もちろん、自分が一次情報で真実を知っていてそれを証明できる限りにおいてはその限りではないが、その場合でも相手に損害を与えることで恨みを買うことを覚悟する心構えが必要とされるわけである。

 

しかしながら、言論機関はともかく、報道機関までもがファクトを報じていると言い難いということは後追いすれば簡単にわかる。

それに輪をかけてファクトと認定されたことが果たして真のファクトなのかもわからないからたちが悪い。

 

そして、このような嘆かわしい現実に際して「今の世の中は」だとか「日本では」だとか「フェイクニュースが飛び交う世の中では」と偉そうに述べるつもりもない。

むしろ、自由な意見が飛び交い、言論の自由が保障されていて、名誉棄損で訴える権利があって、司法もしくは第三者委員会などの機関によって真実を明らかにする権利がある今の日本の世の中が悪いとは言いきれないと思っている。

また、Yahoo!トピックスなどに酷すぎる言論が行き交っていても、司法で断罪されない限りその言論の自由が保障されている世の中が、逆説的にではあるが悪い世の中であるとはいえないだろう。

前回取り上げた破産者マップですらも管理者が徹底的に争うつもりであれば可否について争えたのだろうと思う。

 

今の世の中の恐ろしい点について言うならば、インターネットおよびSNSが登場して以来、節操のない言論がすさまじいスピードと伝播力で広まっていくことと、それを先取りしての社会全体の行動の早さに不気味さを感じるということに尽きる。

また、犯罪は裁判が終わるまでは確定しないのにその前段階での社会全体でのリンチがすさまじいのも怖い。

新井浩文氏やピエール瀧氏は裁判が行われる前から実刑以上とすらいえる制裁を社会から与えられてしまっている。

そして、とかくニュースが多い今の世の中においては、司法もしくは第三者委員会などの機関で判定されたことよりも、既に広まってしまった先入観のほうが真実と印象づけられたままになってしまう傾向にある。

 

社会のリンチがすさまじかった割にシロと判定され、その汚名返上の機会が与えられていないものにはすぐに思いつくだけでも以下のようなものがある。

 

  • 日本体操協会の前女子強化本部長の塚原千恵子氏が第三者委員会の判定でシロと判定された件

  • 日本大アメリカンフットボール部の悪質反則問題では、傷害罪で刑事告訴されていた日大の内田正人前監督と井上奨前コーチについて、悪質タックルをするよう指示した事実は認められないと警視庁が判断をして、書類送検はされたものの東京地検立川支部は立件を見送ったようである(なお、宮川泰介選手については、傷害の実行行為を認定し、書類送検されたようである)

  • 伊藤詩織氏と山口敬之氏の裁判の結果は、山口敬之氏が2度に渡って不起訴処分を受けている

 

ファクトと裁定された結果を受けると、何がパワハラなのか、加害者とされたほうが社会からパワハラを受けているのか、何が何だかわからなくなってしまう。

司法もしくは第三者委員会などの機関の裁定を忖度だとか圧力だとかインチキと言い切る人も多いのだが、ではそう言い切る人がそれを覆すだけの証拠を持っていたり、覆すために訴訟を起こすかといえばそういうことはなく、そう叫んでいるだけのことが多い。

また、国権を三権に分けた国家においては、司法が最終的な判断を下すわけだが、それを本気で覆したいのならば革命でも起こすしかないだろう。

それこそ、北朝鮮ベネズエラのような独裁国家や、ムスリム法が最上位にあるイスラム国家や、戦前の日本やナチスドイツのような全体主義国家は、革命もしくは敗戦後に新憲法を制定しないと転覆しないわけである。

「人間には生まれながらの自然権がある。俺は国なんて認めねえ」という気持ちは誰もが一度は抱いたことはあると思うが、それについてはホッブス・ロック・ルソー・カント・ヘーゲルなどに時代に散々議論されて、その結果、アナーキーな国は世界のどこにも存在していないのだからアナーキストになって革命でも起こさない限りはあきらめるしかない。

 

ところで、インターネットの怖さは認めつつも、インターネットがない昔の世の中とインターネット出現後の今の世の中を比べて今の世の中が悪いとは思わない。

たとえ嘘が飛び交っても言論の自由と多様な言論表明の手段が確保されている世の中のほうがマシだと思うからであり、むしろ世の中は良くなったと思っている。

仮に安保闘争時にインターネットが存在していたらあのような支離滅裂かつ不毛な闘争があそこまで盛り上がることはなかっただろうし、現在の日本社会でもガン的な存在と思える左翼思想に染まった人々もあれほどまでに生み出さずに済んだのではないかと思うからである。

 

話を戻すが、俺は報道機関のようにファクトチェックを行う必要がある立場にはないものの、インターネット上に文章を残す時には細心の注意を払いたいと零細ブログながらに思う。

特に俺は、体育会的上下関係や儒教的上下関係を強く嫌うがゆえに、その辺に関してつい熱くなってしまうことがあるのだがそうならないよう注意したいと思う。

 

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目黒川にて