GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

欧米と民主主義は負けかかっているが…

今回のテーマは専門的に研究している人がいくらでもいそうであり、俺のような門外漢が下手に触れると火傷しそうなテーマなのだが触れることとする。

また、最初に述べておくが、俺は民主主義を愛し、そこで保障されている言論の自由をどこまでも愛しており、言論の自由を制限するあらゆる政治体制に対して強い嫌悪感を持っている。

 

歴史の転換点というものは後になってからでしかきちんと評価できないものだが、過去の歴史の流れを振り返って未来を予測をする行為は日常的になされている。

それが歴史を教訓にするということなのだが、少し前に人間界に誕生したIT化という要素に関しては過去の教訓を生かすとことができないわけであり、そのことが現代に生きる人たちを大きく悩ませている。

 

近代以降の世界は、国際協調と自由経済に向かって動くときと、帝国主義ブロック経済に向かって動くときが、振り子のように揺れ動いてきたわけだが、今は領土拡張を伴わない帝国主義ブロック経済とでもいうべき方向に向かって世界が突き進んでいるように思える。

特に、圧倒的に強大であるがために余裕と寛大さを持ち、それゆえに世界から一目置かれ、一定の尊敬を集めてきたアメリカがここに来て焦りに焦って恫喝と制裁を繰り出しまくるようになっている。

アメリカにはかつてソ連という敵がいたものの、軍事面以外においては大した脅威ではなかったのだが、今世紀になって突如起き上がった巨竜、もしくはゴジラとでもいうべき中国の台頭はアメリカを焦らすには十二分であり、いつまでも余裕をかましていたら追い抜かれるのは必至なので、アメリカが焦りに焦る気持ちも良くわかる。

 

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上のトピックでは世界で最も狂暴な国であるアメリカに与するのが日本の最適戦略と述べたのだが、超長期的に見たらアメリカおよび西欧の分は悪かろうなと思う。

名目GDPだけを見ていてもわからない話だろうが、世界の船舶の輸送量を見ると、1位はアジア・アジア間、2位はアジア・北米間、3位はアジア・ヨーロッパ間となっていて、既に物量の流れの重心はアジアに移っている。

また、以前より予想されていることではあるが、世界の経済の重心は遠からず人口が多いアジアに移り、世界最大の経済大国の座は好む好まざるは別にしてもアメリカから中国に移る。

また、購買力平価GDPでは既に中国が世界最大の経済大国となっているし、2位のアメリカを挟んで、3位インド、4位日本とアジアの国が続いている。

世界史的な観点で見ると、経済の中心が欧米からアジアに戻るのは産業革命以来数百年ぶりのことであり、どういう形になっていくかはわからないものの、それに伴って世界のルールにおいて数百年ぶりの激変が起きていくだろうと思う。

もちろん、今のままのルールが維持されるに越したことはないが、ルールが軍事力と経済力の2つの要素に引っ張られるというのは歴史の法則でもある。

 

そのような中において、過去に2度の世界大戦と冷戦を挟みながらも主要国の屋台骨であり続けた民主主義というシステムが世界の広範囲の国々において行き詰まりを見せ始めているように思う。

もちろん、大きな戦争を長らく抑止できているし、全地球的にどんどん豊かさが増しているし、最貧困層も減少していっているので、多くの国の民主主義は行き詰まっていないと思う人も多いかもしれないが、もしそうだとしたらそれほどありがたいことはない。

しかし、世界全体の利益を全く顧みずに、自分に票を入れるキリスト教福音主義の中低所得層白人の意向にのみ従って次々と方針を決める大統領が君臨するアメリカ、バンコクと農村で票が割れて何度選挙をやっても人口が多くバラマキ目当ての後者が勝つので、しまいには軍政になって久しいタイ、気前よく移民を受け入れたかと思えば、今度はかなり右寄りの政党が躍進するなど振れ幅の大きさと思慮の浅さがにじむヨーロッパ諸国、不正選挙が無くならないロシアやカンボジアのような国を見ると、途中で政策転換が効くのが民主主義の長所とは思いながらも、振れ幅が極端だったり、行き詰まっていたり、そもそもが不正だったりする国があるように見え、一体、こういった国々はどうなっていくのだろうと無力感に近い感覚を抱く。

日本については次回に述べるが、日本はまだマシかもしれないと思う。

また、地球全体の利害を考える国際機関の権益化・テクノクラート化・政治道具化が目立ち、かつ、人間圏が限界まで拡大しているのにも関わらず、各国の利害主張に押されて国際機関の無力化に拍車がかかっているように見える。

 

自分の支持層しか見ないトランプ氏を悪く言う人は多いが、トランプ政権は多数決を重んじる民主主義システムによって選ばれたリーダーであり、もし、トランプ政権が危険なのだとしたら、悪いのはそれを生んだシステムそのものであるともいえる。

紀元前2世紀に古代ギリシャ人のポリュビオス政体循環史観において、政体は「君主政→暴君政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政→君主政」の順で循環すると述べているが、この流れによると衆愚政の次に到来するのは君主政ということになる。

もちろん、今の世の中で君主政に移行することはなかろうと思うが、衆愚政に陥っているように思われる国を見受ける中で、そのような国の民主政がどうなっていくかは注視する必要がある。

人類の英知が働けば振り子が戻るように民主政に戻ってくれるかもしれないが、戻らずに衆愚政ではない新しい政治体制が生まれていく可能性も否定できないように思う。

そして、今の中国は従来の民主主義と全く異なるメカニズムで動く国であり、その独特なメカニズムで上手くやっているように見えなくもないことがこれから多くの国々に影響を与えていくような気がしている。

 

イラク戦争アラブの春を見るまでもなく、アラブやアフリカといった地域には欧米諸国の思惑通りに民主主義が浸透しなかったが、同じく民主主義が定着しなかった中国やロシアとこれらの国々の親和性は高いように見受けられる。

もちろん、親和性が高い理由はお互いに内政干渉をしないからということに尽きる。

これから進む世界経済のアジアシフトとともに、世界において民主主義は退潮を見せるのかもしれないし、むしろそういう国家が意外と上手く運営されるというような状況になっていく可能性は否定できない気がする。

もちろん、そういった流れの中において、前回に述べた、他に口を出しまくる欧米型の個人主義も同時に退潮していくのではなかろうかと思う。

 

冒頭に述べたが、「少し前に誕生したITという要素においてだけは過去の教訓を生かすとことができないわけ」であり、このITという要素と、その次に述べた、産業革命以来数百年ぶりに経済の中心がアジアに戻るという要素、そしていま述べた欧米型民主主義勢力の退潮という3つの大きな事実がこれからの世界の国々の政治体制に与える影響は小さくないだろうと勝手に想像するのである。

 

もし、当時の中国人が今の豊かさを享受していたら天安門事件は起きなかっただろうという文章はちらほら目にするし、仮に中国に民主主義政権が成立していた場合に今の速度では経済成長できなかったであろうと多くの中国人が考えているという文章も目にするし、欧米型の個人主義的な意識が希薄な彼らはプライバシーよりも実利を選び、良くも悪くもそれが利して、今の中国は世界に例を見ないディストピアになろうとしているし、ある程度自由を制限して上手くやっているシンガポールのような国もある。

このように述べると、社会主義国家における官僚の腐敗を思い浮かべてしまわなくもないが、冒頭に述べた通り、現代社会にはIT化という新たな変数が加わった。

アラブ型の超バラマキ福祉だとか、GAFA帝国によるビッグデータとAIを用いた不気味な最適化だとか、AI化による労働からの解放とベーシックインカムの議論だとか、SNSを用いた投票行動の誘導だとか、ターゲッティングした上での情報操作だとか、果てはシンギュラリティに関する議論などといった未知の要素がこれからの民主主義に与える影響は小さくないだろうと思うのである。

欧米型の民主主義は人権と自由を最重要視するが、性犯罪者にチップをつけるだとか、前科者を徹底監視するだとか、現金を無くして政府がカネの流れを完全に把握するなどといった方向において、ITを駆使しつつ、プライバシーや愚行権といった人権をある程度制限して、監視・管理社会化しながらも国民の利益の最大化を図ろうとする方向に動く国家が出てくる可能性は否定できないのではないだろうか。

 

そもそも、現代の国家機構は個々の民衆が正しい判断をするにはあまりに複雑怪奇であり、論が分かれるいくつかの二者択一的な選択肢以外は、文書主義に基づきながらも、専門の行政官によって粛々と執行されており、また、そうでなくては回りようがない。

言葉は悪いが、バカだらけでエゴ丸出しの個人が形成する多数派が権力を握り、時に民意を盾にして愚行と思えるような政策を選択する欧米型民主主義ではなく、ある独裁的な面を内包しつつ、ある程度自由を制限しながらも、民衆全体の利益を最適化するよう調整しながら緻密に行政を執行する政治体制を選んだり、取り入れたりして、それで意外と上手くやっていくというような国が出てくるかもしれないと思う。

繰り返すが、現代社会はビッグデータやAIといった要素が初めて登場した時代であり、ここから先の世界は過去の事例をもとに予見することが不可能な未曽有の領域に入るわけで、そういったことが起きても不思議ではないだろうと思うのである。

もちろん、個人的には中国のような国には気持ち悪さしか感じないので、民主主義国の首脳が「我々が共有する普遍的な価値観」と口にするような欧米型民主主義がこれからも世界各国で維持され続けることを強く望みたい。

 

なお、先に述べた政体循環史観で用いられているのは「民主主義」ではなく「民主政」という言葉だが、橘玲氏は民主主義という言葉は誤訳で、民主政という言葉を使うほうが良かろうというふうに述べておられていて、俺もこの意見に賛同するのだけれど、面倒くさいのでここでは民主主義という言葉を使っている。

 

次回は、「日本の権力構造と自民党総裁選」という内容について述べる。

 

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恫喝して自分のルールを押しつける欧米人の個人主義

先日、セーリングの「ワールドカップ江の島大会」の開会式にイルカショーが披露されたことに対して国際セーリング連盟が非難し、日本セーリング連盟は「イルカの扱いについては個人や国によって考え方が違い、イルカショーを披露したことは慎重さを欠いていたと思います。不快な思いをされた方にはおわび申し上げます」と陳謝したそうだが、考え方の違いを置いて非難するほうもさながら謝るほうもなんだかなと思う。

この日本セーリング連盟のコメントは非常に良く練られたコメントだとは思うが、受け流している印象が強く、あまり気分の良いものではないし、国際セーリング連盟とかいう国際組織が偏った主張するのは不愉快である。

 

波風を立てたくないので取りあえず謝っておくというのがいかにも日本的だが、こういうメンタリティーの国で移民が増えたらやっかいなことになるだろうなと思う。

日本に来た観光客が、ヴィーガンの食事がないだとか、ハラルじゃないだとか、豚肉が使われているだとか、礼拝堂がないなどと訴えることが多いらしく、確かにその気持ちはわからなくはないのだが、定住するようになればこういった訴えがより日常化・権利化することになるだろうと思う。

俺は、フォークやナイフより箸のほうが圧倒的に優れたツールだと思うがゆえに、また、欧米人ではないがゆえに、ステーキ以外の食事において、フォークやナイフで食事をすることに実は強い心理的抵抗を感じる人間なのだが、「郷に入ったら郷に従え」で、洋食のレストランや旅先では我慢してフォークやナイフを使っている。

原理主義者としてテーブルマナーとやらもクソとしか思っていないが、一応は覚えて、嫌々ながらそれを励行している。

俺がヨーロッパのレストランで「箸がない」と駄々をこねたい気持ちを抑え込んでいるというのにワガママ言う人がいるものだなあと思うが、自己主張・権利主張が激しい人といるのはどこにでもいるものである。

また、宗教を完全否定している俺のような人間からすればムスリムの言うことは全てワガママとしか思えないわけで、まだ客として来て欲しいという下心があるなら合わせてもいいかなという気にもなるが、もし、選んで日本に住むのだとしたら、あまり権利ばかりを主張しないで欲しいと思うほうではある。

 

ヴィーガンの親に育てられた子が「給食を食わん」とか言い出したり、イスラム教の子供が「豚が入っている」「ハラルじゃない」とか言い出したら面倒くさくなるわ、コストはかかるわで、給食システムも廃れるだろうなと思う。

俺に限っては移民が入ることに反対しないと先日述べたのではあるが、そんな面倒くさい世の中には絶対になって欲しくないと思う。

 

これまで移民の権利主張について述べたのだが、こういった権利主張の本流は欧米の個人主義にあるとは誰もが思うところであろう。

確かに旅先で見たり会ったりした中国人やインド人の自己主張・権利主張も半端なく激しかったものの、あれは毎日がやるかやられるかのチキンレースで生きているがゆえにやらざるを得ない自己主張・権利主張にすぎないわけである。

それに対して、個人主義に基づく権利主張を崇高な論理にまで昇華させたのは欧米人である。

個人主義の論理があまりに理路整然としているために全人類が使いやすいのに対して、相手の身になって考えることや惻隠の情を持つことを美徳とする日本古来の感覚はあいまいかつわかっているものにしか使うことができない腹芸であるがゆえに時代錯誤なものとされる世相にあり、日本国内においてですら、やれ「忖度」だの「空気を読みすぎ」だの「茶坊主」だのと言って小バカにされる風潮になっていっているわけである。

個人主義に基づく権利主張というツールは、あまりに便利なために世界中に広がったわけだが、その一例はワールドカップにおける選手の異常な痛がり方やオーバーアクションに見受けることができる。

 

欧米社会は個人主義に基づく自己主張・権利主張が尊重され、人に合わせたり迎合することがむしろ卑下される社会であるが、その代償として、訴訟が多く、暗黙の了解も少なく、ストなどで不便になりがちな社会である。

しかも、その自己主張・権利主張には「言ったもん勝ち」「圧力をかけた者勝ち」みたいなところがあって、よくよく考えると欧米あたりの動物愛護団体のような自分の意見を主張しまくる団体がこねる理屈というのは初めから論理が破綻していることが多いのだが、それでも脅しによって実利を得ようとして主張するわけである。

まるで、「いいか!おまえら!イランから石油を買うなよ」と言う今のアメリカ政府のごとし、かつての欧米列強のごとしである。

それに比べたら他国の意を汲みつつあいまいな懐柔策でまるめこもうとしたり、ステルス的に事を運んでいく中国やロシアがかわいく思えるぐらいである。

 

ところで、動物に関しての俺の論理は一貫していて、隙がないと自己判断しているのだが、それは以下のような論理である。

 

  • 牛・豚・鶏・魚を食べるので、犬・猫・イルカ・クジラを特別扱いできない。
  • 動物を食べ、ネズミの駆除を支持する俺は、犬や猫の殺処分に反対できない。
  • もちろん、犬・猫の殺処分はかわいそうと思うので飼わないと決めている。
  • 自分が肉を食うので、何を食う人がいても文句は言えない。
  • 肉を食べる人は毛皮・動物園・殺処分などに対して文句は言えない。
  • 本当に動物を愛護したいなら、異常に増える人間の数を減らすべき。

 

ここまで論理的な主張を展開するのならばともかく、「牛を食っていいが犬はダメ、犬を飼うのがいいがイルカはダメ、乗馬は良いがイルカショーはダメ」などといった完全に破たんしている論理、もしくは宗教観のようなデタラメを持ち出す輩がいるから、言われるほうが受け入れられないわけである。

俺は、犬・猫を偏愛して愛護を訴える人が肉を食っていたら「偽善者だね」と言って大笑いして差し上げるし、どうしても犬・猫を保護したいというなら「なら肉を食うな」と言うと思う。

俺は真似したくないが、ヴィーガンの人だけは論理が首尾一貫していると認めざる得ないと思っている。

だからといって肉屋を襲うのは刑法違反だと思っているのだけれど…。

 

そもそも、サーカスはローマ時代からあったわけで、時代に応じて考え方が変わり、今になって動物虐待と訴える人が出てきたわけだが、アファーマティブアクションだの、LGBTの権利主張だのと、次から次へと新しい理屈を構築してルールを目まぐるしく変えるのは欧米人の得意技である。

欧米諸国は軍事力と経済力を背景に、制裁と訴訟と恫喝で自らの決めたルールへの変更を迫って他の国を追い込んできた歴史を持っているが、古い順から、クロムウェル政権の航海法・植民地支配・条約締結・経済制裁・為替等の経済合意・会計ルール変更などにおいて自分で作ったルールを他国に押しつけ続けてきたわけである。

また、自分たちは価値基準を時代に応じてコロコロ変化させるくせに、その価値基準を昔から一貫した価値基準でやっている別の文明圏に対して押しつけ続けてきたわけである。

 

確かに自己主張・権利主張には絶大なメリットがあり、声なき声を拾いやすく、弱者やマイノリティーの尊重する社会へとつながりやすいのだが、それは論理が一貫している場合に尊重されるべきものであり、論理が通っていないロジックで恫喝してくる相手には論理的に一貫したロジックで返答するべきだろうと思う。

まあ、返答したら返答したでやたらと面倒だから、面倒だと思った側が、適当に受け流す、相手にしないというアプローチでその場をしのぐようになってしまうわけなのだけど…。

 

次回は「欧米と民主主義は負けかかっているが…」という内容で書く。

 

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