人生は暇つぶし
生きる目的については誰もが考える。
動物学的には種の存続だとか発展だとか使命があるのだろうが、人間という種の存在はもはやそういった枠を大幅に越えて増えすぎてしまっているし、個人として子孫を存続させても人類全体から見たらあまりに微々たることである。
本には「人のためになるため」だとか、「人から理解される・喜ばれることが喜び」と書いてあったりすることがあるが、それが生きる目的というのは他人本位であり自分が主体にはならないので本末転倒に思える。
「充実感を味わう」という目的というのも良く聞くがそれはそれで成り立つと思うし、これは自分が主体になっているので本末転倒でもない。
「充実感を味わう」とやらも暇をつぶす上で心を満足させるための一環にすぎないと思うからである。
信念だとか勧善懲悪といった意識というのも自分が自分を好きになるために行う手段にすぎないと思っている。
自分のことを嫌いになったらそんな不幸なことはないからそれを避けるためにそうするだけなのである。
自問自答し続けることこそが主体的態度である
とはいえ、「人殺しは悪」「いじめは悪」「盗みは悪」といった基本的な社会的規範に大きな影響を受け、それを順守するように良い意味で教育されてしまっており、その影響は多大に受けている。
ただ、それは僕の中では相対的合理性があると思うからそうすることを選択しているだけで、宗教的・絶対的真理に基づいてそれを選択しているわけではない。
そうでないと、殺人は絶対にダメでも戦争で人を殺すのはやむを得ないというロジックを成り立たせることができないからで、絶対的にそう考えるのであればあらゆる戦争による殺人は通常の殺人と同列に考えなければならないし、あらゆる戦争に反対しなくてはならなくなる。
あらゆる戦争に反対をするということは、度を越えた抑圧と専従を強いられる人々を見過ごすことにもつながるので、小さな不幸を生まないために大きな不幸を放置することになりかねない。
いつでも絶対的な論理を振りかざしているくせに、ご都合主義で「聖戦」などと呼んだりして相対的な対応を取ることが多々ある宗教を僕はインチキだと思っている。
また、自然界は弱肉強食であり、そもそも人間の世界よりはるかに残酷にできている。
宗教に基づいて、罰があたるから悪いことはしないだとか、救済されたいから悪事をしないというのは、僕にとっては自分本位ではない消極的姿勢、もしくは思考停止に思える。
自分の暇つぶしを有効なものとするために、自分のことを嫌になることはしない、そのために悪事を行わないというほうが主体性のある態度であり、常にそのことについて考え続けることを自分に強いることができるのではないかと考えている。
自分に嘘はつけないから宗教は信じられない
人はいろいろいるから宗教を信じる人のことは尊重するし、強く宗教を信じる人にとって宗教が何よりもと言っていいぐらいに大切なことも良く理解しているから信教は尊重する。
でも、僕は宗教は信じない。
なぜならば、宗教において述べられていることが僕には全く信じられないからである。
八百万の神も仏も天国も地獄も一神教の絶対神も裁きの日も全く信じられないし、どうやっても存在を認識できない。
もしかしたら霊感というものが極端にないのかもしれないが、スピリチュアルなものを認識したことも生まれて一度もない。
だからどうしても宗教を信じることができないのである。
自分の心に嘘をついて信じてしまうことにすることもできるのだろうが、僕はそういった最も深い部分で自分に嘘をつかないことが自分にとって誠実と思っているので僕には宗教は信じられない。
そういう僕のことをかわいそうに思う人がいても、間違っていると思う人がいても、それはそれで尊重する。
でも僕は、人が何故に宗教に染まって、宗教に必死になれるのかについて心の底からわからない。
牧師さんやお坊さんがどんなにいい話をしてもどんなに人格者に見えても、「この人、その存在を信じちゃってるんだよなあ…」と本音では思ってしまう。
ところで、イスラム教徒にとって無信教というのは悪魔に魂を売っている者であるかのように信じられないことらしいが、イスラム教の狂信者によるテロはたくさん起きても、無宗教の人の犯罪率が高いという話は聞いたことがない。
宗教が述べる内容を否定してしまえる根拠を次々と示し続けている科学がこれほどまでに発展しておきながら、宗教を巡る争いは収まるどころか酷くなるばかりである。
僕にはどうしてあそこまで宗教を信じてしまえるのか理解できない。
昨年、フランスで宗教的なテロが起きたが、頭がおかしいどうのという前に信仰心が強すぎなければやらなかったであろうと思う。
そもそも狂信者が厳守する戒律は人間が時間をかけて作ってきた倫理や立憲主義国民国家における法律などよりずっと優先すべきものであるに違いなく、彼らはひとかけらも間違ったことをしたとは思わないのだろうからどうにもならない。
科学のほうがまだ信じられる
科学が絶対とは言わないし、生命体の不思議を思えば科学なんてしれていると言わざるを得ないし、どんな小さな生命体ですら科学をはるかに超越しているし、宇宙について知るほど世の中についてわからなすぎて困ってしまうが、宇宙視点で見ればちっぽけなのにも程がある人間ごときが唱える宗教、人間ごときが中心にある宗教なんぞ信じるに足りるはずがないとも思っている。
「太陽系・天の川銀河・宇宙の大きさを見て宗教の存在を疑え」と個人的には思っている。
僕にとって、科学は、物理学や進化論は宗教よりはずっと信じることができる。
これですら完全には信じきれていないし、科学がなんたるかも大してわかってはいないが、比較的に最も信じることができる宗教があるとすればそれは科学であり、科学の手法であるとしか言いようがない。
宗教の雰囲気は人生を楽しむために使います
ここまでずいぶんと過激なことを書いたが、最高位の神官である天皇陛下を大切に思っているし、神社や寺では手を合わせて参拝もすれば初詣にも行くし、お賽銭もできるだけ50円以上は入れるようにしているし、自分の結婚式をグアムの教会で挙げて、牧師さんに「YES, I DO.」と元気よく返事した普通の人間でもある。
クリスマス前にはビヨンセやアギレラのクリスマスアルバムを聴きまくるし、クリスマスが近づくと銀座や丸の内に散歩に行く回数が増える困り者でもある。
また、池上彰氏も著書「おとなの教養」などにおいて現代の教養=リベラルアーツ7科目の筆頭に宗教を掲げているが、人類の歴史を学ぶ上で宗教の果たした役割、また、現代社会における宗教の役割を考えれば宗教について考え続けることは必須であるとも思っている。
まあ、それでも信じないんだけど...。
恐山にて