GOODDAYS

世の中をかいくぐって逆張りの人生を歩む俺の意見

恫喝して自分のルールを押しつける欧米人の個人主義

先日、セーリングの「ワールドカップ江の島大会」の開会式にイルカショーが披露されたことに対して国際セーリング連盟が非難し、日本セーリング連盟は「イルカの扱いについては個人や国によって考え方が違い、イルカショーを披露したことは慎重さを欠いていたと思います。不快な思いをされた方にはおわび申し上げます」と陳謝したそうだが、考え方の違いを置いて非難するほうもさながら謝るほうもなんだかなと思う。

この日本セーリング連盟のコメントは非常に良く練られたコメントだとは思うが、受け流している印象が強く、あまり気分の良いものではないし、国際セーリング連盟とかいう国際組織が偏った主張するのは不愉快である。

 

波風を立てたくないので取りあえず謝っておくというのがいかにも日本的だが、こういうメンタリティーの国で移民が増えたらやっかいなことになるだろうなと思う。

日本に来た観光客が、ヴィーガンの食事がないだとか、ハラルじゃないだとか、豚肉が使われているだとか、礼拝堂がないなどと訴えることが多いらしく、確かにその気持ちはわからなくはないのだが、定住するようになればこういった訴えがより日常化・権利化することになるだろうと思う。

俺は、フォークやナイフより箸のほうが圧倒的に優れたツールだと思うがゆえに、また、欧米人ではないがゆえに、ステーキ以外の食事において、フォークやナイフで食事をすることに実は強い心理的抵抗を感じる人間なのだが、「郷に入ったら郷に従え」で、洋食のレストランや旅先では我慢してフォークやナイフを使っている。

原理主義者としてテーブルマナーとやらもクソとしか思っていないが、一応は覚えて、嫌々ながらそれを励行している。

俺がヨーロッパのレストランで「箸がない」と駄々をこねたい気持ちを抑え込んでいるというのにワガママ言う人がいるものだなあと思うが、自己主張・権利主張が激しい人といるのはどこにでもいるものである。

また、宗教を完全否定している俺のような人間からすればムスリムの言うことは全てワガママとしか思えないわけで、まだ客として来て欲しいという下心があるなら合わせてもいいかなという気にもなるが、もし、選んで日本に住むのだとしたら、あまり権利ばかりを主張しないで欲しいと思うほうではある。

 

ヴィーガンの親に育てられた子が「給食を食わん」とか言い出したり、イスラム教の子供が「豚が入っている」「ハラルじゃない」とか言い出したら面倒くさくなるわ、コストはかかるわで、給食システムも廃れるだろうなと思う。

俺に限っては移民が入ることに反対しないと先日述べたのではあるが、そんな面倒くさい世の中には絶対になって欲しくないと思う。

 

これまで移民の権利主張について述べたのだが、こういった権利主張の本流は欧米の個人主義にあるとは誰もが思うところであろう。

確かに旅先で見たり会ったりした中国人やインド人の自己主張・権利主張も半端なく激しかったものの、あれは毎日がやるかやられるかのチキンレースで生きているがゆえにやらざるを得ない自己主張・権利主張に過ぎないわけである。

それに対して、個人主義に基づく権利主張を崇高な論理にまで昇華させたのは欧米人である。

個人主義の論理があまりに理路整然としているために全人類が使いやすいのに対して、相手の身になって考えることや惻隠の情を持つことを美徳とする日本古来の感覚はあいまいかつわかっているものにしか使うことができない腹芸であるがゆえに時代錯誤なものとされる世相にあり、日本国内においてですら、やれ「忖度」だの「空気を読みすぎ」だの「茶坊主」だのと言って小バカにされる風潮になっていっているわけである。

個人主義に基づく権利主張というツールは、あまりに便利なために世界中に広がったわけだが、その一例はワールドカップにおける選手の異常な痛がり方やオーバーアクションに見受けることができる。

 

欧米社会は個人主義に基づく自己主張・権利主張が尊重され、人に合わせたり迎合することがむしろ卑下される社会であるが、その代償として、訴訟が多く、暗黙の了解も少なく、ストなどで不便になりがちな社会である。

しかも、その自己主張・権利主張には「言ったもん勝ち」「圧力をかけた者勝ち」みたいなところがあって、よくよく考えると欧米あたりの動物愛護団体のような自分の意見を主張しまくる団体がこねる理屈というのは初めから論理が破綻していることが多いのだが、それでも脅しによって実利を得ようとして主張するわけである。

まるで、「いいか!おまえら!イランから石油を買うなよ」と言う今のアメリカ政府のごとし、かつての欧米列強のごとしである。

それに比べたら他国の意を汲みつつあいまいな懐柔策でまるめこもうとしたり、ステルス的に事を運んでいく中国やロシアがかわいく思えるぐらいである。

 

ところで、動物に関しての俺の論理は一貫していて、隙がないと自己判断しているのだが、それは以下のような論理である。

 

  • 牛・豚・鶏・魚を食べるので、犬・猫・イルカ・クジラを特別扱いできない。
  • 動物を食べ、ネズミの駆除を支持する俺は、犬や猫の殺処分に反対できない。
  • もちろん、犬・猫の殺処分はかわいそうと思うので飼わないと決めている。
  • 自分が肉を食うので、何を食う人がいても文句は言えない。
  • 肉を食べる人は毛皮・動物園・殺処分などに対して文句は言えない。
  • 本当に動物を愛護したいなら、異常に増える人間の数を減らすべき。

 

ここまで論理的な主張を展開するのならばともかく、「牛を食っていいが犬はダメ、犬を飼うのがいいがイルカはダメ、乗馬は良いがイルカショーはダメ」などといった完全に破たんしている論理、もしくは宗教観のようなデタラメを持ち出す輩がいるから、言われるほうが受け入れられないわけである。

俺は、犬・猫を偏愛して愛護を訴える人が肉を食っていたら「偽善者だね」と言って大笑いして差し上げるし、どうしても犬・猫を保護したいというなら「なら肉を食うな」と言うと思う。

俺は真似したくないが、ヴィーガンの人だけは論理が首尾一貫していると認めざる得ないと思っている。

だからといって肉屋を襲うのは刑法違反だと思っているのだけれど…。

 

そもそも、サーカスはローマ時代からあったわけで、時代に応じて考え方が変わり、今になって動物虐待と訴える人が出てきたわけだが、アファーマティブアクションだの、LGBTの権利主張だのと、次から次へと新しい理屈を構築してルールを目まぐるしく変えるのは欧米人の得意技である。

欧米諸国は軍事力と経済力を背景に、制裁と訴訟と恫喝で自らの決めたルールへの変更を迫って他の国を追い込んできた歴史を持っているが、古い順から、クロムウェル政権の航海法・植民地支配・条約締結・経済制裁・為替等の経済合意・会計ルール変更などにおいて自分で作ったルールを他国に押しつけ続けてきたわけである。

また、自分たちは価値基準を時代に応じてコロコロ変化させるくせに、その価値基準を昔から一貫した価値基準でやっている別の文明圏に対して押しつけ続けてきたわけである。

 

確かに自己主張・権利主張には絶大なメリットがあり、声なき声を拾いやすく、弱者やマイノリティーの尊重する社会へとつながりやすいのだが、それは論理が一貫している場合に尊重されるべきものであり、論理が通っていないロジックで恫喝してくる相手には論理的に一貫したロジックで返答するべきだろうと思う。

まあ、返答したら返答したでやたらと面倒だから、面倒だと思った側が、適当に受け流す、相手にしないというアプローチでその場をしのぐようになってしまうわけなのだけど…。

 

次回は「欧米と民主主義は負けかかっているが…」という内容で書く。