この前ペットボトルについて書いたが、E氏が「あれは回収していてもほとんど意味をなさない」と言っていた。
確かに、ネットで調べると確かにそういった記述が多い。
ペットボトルのことで前から不思議に思っていたのは、何で、缶や、ビンや、ビンの蓋や、ビンのラベルや、ペットボトルや、ペットボトルの蓋や、ペットボトルのラベルや、コーンスープに残ったコーンや、つぶつぶみかんのつぶつぶなど、缶の中に押し込まれたタバコや、不届き者が棄てるその他のゴミが同じところに棄てられてそれが資源になるの?その工程はどうなっているの?仕分けに手作業が介していたら人件費はバカにならないんじゃないの?」とかなり怪しく思いながらも、臭いものに蓋をするように考えずにきた。
でも、オイラはそれとなく怪しく思っていたからペットボトル製品をできるだけ買わないよう自律して生きてきた。
とはいえ、オイラは聖人君子ではない。
モノはできるだけ買わずに長年大切に使うし、よほどのことがない限りを飯を残さないし、使い捨て製品はほとんど買わないし、コンビニでは袋詰めをできるだけ断るし、乾電池は図書館の回収ボックス、トレイはスーパー、びんやペットボトルはラベルと蓋をとって洗って踏みつぶして回収に出すなど、リサイクルにはうるさい主婦ばりに分別して出すし、車は持たないし、車に乗ってもアイドリングは可能な限りしないし、生まれてこのかたゴミをポイ捨てした記憶もない。
でも、これは主に自己満足のためにやってきただけである。
自分で決めた「原則」を守って生きるという日常的な行動の一環にすぎないのだ。
「原則」は合理的な理由に則って決められるべきだと思うのだが、エコの件に関してはきちんと腹落ちしていないこともあって、それほど合理的な確証を持って原則を定められないのである。
世の中はナゾと矛盾とのワンダーランドだ。
常に拡大を続けることを大前提とする市場経済主義とエコ的な考えは基本的に矛盾しているし、通俗的なエコにおける考え方のパラダイムが正しいかどうかについても相当に懐疑的な部分がある。
だから、私に限って言えば、モノゴトを真剣に考えれば頭がおかしくなる複雑系な世の中において頭がおかしくならないで済むように、自分が思うところの次善と思える程度の原則を決め、それに従って生きるという逃避的な選択肢を半ば盲目的に履行しているというだけの話なのだ。
実は家ではたくさん電気を使っているというアル・ゴアさんの作品を見ていないからなんともいえんが、恐竜にあこがれていた子供の頃は温暖化より、氷河期になることのほうが怖かった。
今や有毒ガスと言われる二酸化炭素による温暖化によって進む温暖化が本当にヤバいのかどうかという議論はもう解決済みなのだろうか。
とかく、エコになるつもりでもエコになっているのかどうかすらわからないナゾと矛盾とのワンダーランドの世の中だが、エコ的な視点で考えると実にいろいろなことを考えてしまう。
以下のような感じで。
- 人類が増えすぎると環境に悪いのなら日本ぐらい少子化でいいじゃんかよ!
- そもそも常に人口が増え、経済が発展することを前提としている市場経済主義のまま未来永劫いけるのか?無理だろ?
- それをミクロに落としこむと、「会社の売上計画の数字を毎年減らしても別にいいや…」というなかなか採り辛い選択を指すことになるっしょ。
- 車のメーカーがエコ云々とPRするのを見ると、「つべこべ言わずに電車に乗れ」と思う。
- 「地球にやさしく」と聞けば「地球に感情はねえんだよ!所詮は人間様のためだろ?」と思う。
- そもそもペットボトル飲料なんてあんまり売るんじゃねえよ!
- ちょっと問題が起きれば大量廃棄をいとわない規範を持つ社会がエコ言うなよ。
- 車なんか乗り回すなよ!車を作る会社が環境で表彰されるなよ!
- 工業製品がたくさん売れれば景気が良いと言ってるんじゃねえ!裏でゴミの山ができるんだぞ!
- 経済全体が縮小の一途をたどるデフレスパイラルこそ環境に良いんじゃん?
- 環境という言葉を宗教みたいにするんじゃねえ!
- 企業は製品の買い替えばかりを促すなよ!
- モノは大事に使えよ!俺なんか、掃除機も電子レンジも洗濯機も10年以上使っているし、まだまだ使うつもりだぞ!
この調子ならいくらでも出ていますわな。
そもそも売るための「マーケティング」的な考えが根本的にエコにケンカを売っていることはマーケティングを勉強すればすぐにわかる。
オイラは、質素でも豊かに、サプライサイドに扇動されないで、言わば、クラシカルなヨーロッパ的価値観を持って生活することを心がけているが、「世の中には軽薄でも巧妙なマーケティングに乗せられるがままの生き方をしている人が多すぎなんじゃないか…」と思う。
最後に一つ。
オイラは、「高い高速代を払えないから一般道を走るという輸送車両の、アイドリングや信号における停止発進や渋滞や走行時間の拡大による物流コストの機械損失や環境への悪影響やドライバーの労働環境の悪化を一気に緩和するために、交通容量の大きい高速道路は原則無料にしろ!」と言ってきたが、多くの人々は本質を見ずに小泉改革に賛同した。
この問題の本質は、利用者にカネを多く負担させて借金を返すことではなく、もう無駄な道路を作らないことにあったのに、結果は全く逆に作用してしまった。
三位一体改革や、世界との競争の中で、どの地方も疲弊し、財政もヤバいのに、多くの自治体が新直轄方式で道路を作るという愚を選んだ。
それによって、地方の旧道はさらに閑散となるのにも関わらずである。
確かに、償還を優先するということは大切なことだが、結局それは国民の財布に手を突っ込むという点では同じことである。
高速道路を無料化することには、それよりもっと大きな大義もエコ的な効果も経済的な効果も恩恵もあったはずなのに、人々は往々にして本質を見失うものである。
とにかくエコについて考えると難しいから、オイラは小市民らしく、自分の原則で自分を律するという行為をとることで罪悪感から逃げるという選択肢を採る程度にとどめておく。