旅をしていて限界を感じることがある。
旅をしてすること、できることといったら以下のことに集約できると思う。
- 街を歩いて街並みを見て感じる。
- 観光地とされている場所を見学する。
- 店やスーパーを見て人々の暮らしぶりを推測する。
- 人の様子を見る、可能であれば多少の交流をする。
- その地のものを食べる。
- その場所でならではのアクティビティを楽しむ。
- その地の気候や空気感や匂いを感じる。
- ゆっくりとした時間を過ごしたり休んだりする。
もちろん、それで十分といえば十分なのだが、そこに住むわけではないから季節全体を通してのその街の感想を得られるわけがなく、それどころかその街を訪問した際の気候にすら感想が左右されてしまうぐらいで、また、暮らしぶりを見るにしても衣食住のライフスタイル全体を知ることはできない。
司馬遼太郎氏のように徹底的に現地のことを事前に調べて、その確認作業に行くような旅にも学びはあるだろうが、それでは純粋な楽しみは減ってしまうだろう。
実際の過ごし方としてはここを観よとパッケージングされたような場所を観て、そこは首都だったり代表的観光地だったりすることが多く、そこに暮らす人にとっても極めて非日常的な場所であることが多い。
そういった場所を歩いて、見物して、食べて、休んで、乗り物に乗っての繰り返しで旅の時間は過ぎていく。
観光地では、現地の人同士がどんな会話を楽しみ、現地の人同士がどういった距離感とテンションで互いに接し合っているかもきちんとは理解できない。
それどころか、急激なスピードで外国観光が世界的に広まった今、代表的観光地にいる観光者の多くが外国人だったりして、外国に行って外国人で集まっているかのような様相かつ、観光客相手のサービス業に従事している人も出稼ぎだったりすることが多そうだからなんだかな~と思うことすらある。
ヨーロッパ先進国の代表的観光地などはまさしくこのパターンが多く目につく。
また、旅人はどこまでも旅人であり、旅は断片であり、旅は非日常であるがゆえに生活との連続性がないものであり、間違っても「旅は人生」ではないのが普通である。
旅が人に気づきを与えることは本当に多いが、旅が日常やその後の人生をガラリと変えるようなことはそうそうない。
終わったらまた静かな毎日がリスタートするだけなのだ。
旅にも、旅によって自分が変わることにも期待しすぎてはいけないと思う。
ここをまるでそうではないかのように勘違いさせるような文章を多く見受けるのだが、これは僕が長らく気になっていることだ。
世の中には、ずっと旅を続けながら過ごしてそういったライフスタイルをことさらに誇る人もいるが、静かで同じことの繰り返しの単純な日常がない人生がない人生が豊かといえるかを真面目に考え抜けば、答えはわかることだと僕は思う。
むしろ、人生における多くの学びや喜びは単純な日常から得られるものなのだ。
あとは、旅そのものが最高の娯楽だからいいのだけど、旅ほどハードな娯楽もそうそうないとはいつも思う。
とはいえ、これだけごちゃごちゃ述べつつも、やはり旅は魅力的だ。
マラケシュ・フナ広場