「夏は暑い。冬は寒い。くそー俺も巨泉のような生活がしてー」と言い、11月から4月までをオーストラリアとニュージーランドで、6月から9月までをカナダで過ごす、いいとこ取りな彼の生活をうらやましがったことがあるのは俺だけではないだろう。
ちなみに妻はカナダに6年、オーストラリアに数ヵ月滞在したことがあるのだが…。
とはいい、こんなことを口走ってみるが、夏や冬のない生活がうらやましいのか、それともセミリタイアした生活がうらやましいのかすらわからなくなって、去年頃は大真面目に、「ハワイやカナダやオーストラリアやニュージーランドはカネ的に無理だが、タイやバリはどうなんだ。年にいくらの利回りを出せば生活できるのだ?」とのたまって、真面目にセミリタイア生活の本を図書館で借りて読み漁っていた。
でも、真面目に考えれば考えるほど、いったん行くと楽園に思えるタイやバリやハワイやグアムの季節のない生活が延々と続くことへの怖さは漠然とあった。
それは巨泉式生活に対しても同様の怖さを感じるのと同じで、四季の存在を面倒くさがりながら、四季のない生活に対する違和感はぬぐえないままでいる。
ところで、海外旅行に行くと、「味噌汁飲みてー」というタイプとそうでないタイプがいるが、俺はインドとネパールにいた1ヵ月はほとんどカレーしか食べていないし、中国に1ヵ月以上いたときも中華しか食べていないし、海外で日本食を別段恋しく思ったことはない。
東京が世界に冠たる食の都であることぐらい、わざわざミシュランが認めなくても簡単にわかることなのだが、俺の食への順応性は意外と高いのでその点についてはさして心配していない。
でも、俺はどうしても日本の秋が好きだ。
だったら、巨泉氏のように秋だけ日本にいればいいということにもなるが、夏の暑さがないと、季節の移ろいがないと、秋に感動はできんという思いもやはりどうしてもある。
昨日、それまでクソ暑かったのに、大雨が降ってから「これは秋なのではないか?」と思えるぐらいに涼しくなったが、俺はこの感覚に超ワクワクした。
皮膚感覚で大好きな秋を感じたからだと思う。
前々回に、ワクワクを得る方法について悩むと書いたが、昨日は天から降ってきたようにワクワクが心に宿った。
そして、外ではセミは泣いているが、まだ涼しいのでそのワクワク感はまだ今も続いている。
紅葉になれば、クリスマスが来れば、正月になれば、桜が咲けば、新緑が萌えれば、海水浴場に着けば、毎年毎年ワクワクするけど、本当に四季の移ろいっていいなあと思う。
能動的に感動を得るのは努力がいるが、受動的な感動は努力がいらず、その割に効果も大きい。
四季の移ろいとか、旅行なんてものはその最たる手段だと思う。
やっぱり、四季の移ろいが好きだし、旅行に行くカネも必要だからセミリタイアを視野に入れるにはまだ早すぎると思う。
まあ、現実問題として、働かずに利回りだけで食べられるほどにはカネも運用の腕もないし、巨泉氏ほど多趣味でさまざまな分野に造詣があるわけでもなく、その巨泉氏ですらセミリタイアしたのは56歳だったので、俺が若くしてリタイアすることなんてとてもとても考えられない。
ところで、四季でなく、旅行も受動的な感動を得るには最たる手段と書いたが、ちょうど俺が今読んでいる、兼高かおる氏の「わたくしが旅から学んだこと」に「42歳定年説はいかが」なんてことが書いてあるのだけれど、彼女も42歳では引退していない。
むしろ、80歳を過ぎた今でも活動的で引退しているとは思えない。
そういや、平日の朝は8時までふとんから出ないくせに、土曜の朝に限っていつも6時にはふとんから出るのだが、これも夏から秋になるのを喜ぶのと同じで、平日から休日に移るのを俺が心から待ち望んでいるからなのだろう…。
夏があっての秋、平日があっての休日なんですね…。