最近、ワクワクしたり、楽しいと思ったりする感情をどう作りだすかについてよく考える。
子供のときのようにとまではいかなくても、何をするにでも楽しんだほうが勝ちと思うのだが、このところ、そういう感情が湧き起こる頻度が減っているようで、これじゃいかんと痛切に思うのだ。
楽しみでやっているはずのことでさえ、義務感でやっている気になったり、うまくいかないことにイライラしたりすることが増えている気がするのだが、このスパイラルから抜けたいのだ。
楽しむ感情を阻害する感情は二つあると思っていて、その一つが「慣れ」だと思う。
健康で、好きな人と一緒にいて、収入を得られる仕事があって、毎日自由に使える余暇があって、どこをどう考えても幸せなはずなのに幸福感をかみしめられないとすれば想像力が足りないからに他ならない。
熱が出たときのことや、口内炎ができたときのことを、一日に一度でも思い出して自分が幸せであることを確認しなくてはいけないのだ。
また、好きな人がいたとして、夜ごと胸を締めつけられるほどに恋しく思うその人をこちらに振り向かせたくて、それでもどうすればよいかわからないあのドキドキ感も、その人と結ばれて時間が経てば忘れてしまうのと同じで、幸福感や楽しさという感情は慣れによって薄まる。
だからあんまり高位安定した状態が続くのはありがたみを喪失させて、幸せの阻害要因となっているのではないかと、このところつとに思う。
俺よ足るを知れ!
楽しむ感情を阻害するもう一つの感情はシャレじゃないけど、「損得勘定する感情」だと思う。
大学を卒業してすぐに就職した会社でやっていた仕事は、つい時間を忘れて打ち込んでしまって、気がついたら夜中までやってしまったりすることもけっこうあったが、今の仕事でそんなふうになるのは絶対に無理だ。
今の仕事は、集中できたり上手くいけば17時、集中力がイマイチだったりつまずいてしまったら18時過ぎに帰ることになってしまうのだが、仕事の過程を楽しむというよりは少しでも早く終わらせて帰りたいという損得を推し量る気持ちばかりが前に出てしまう。
早く家に帰れることは本当にありがたいことだから前の仕事には戻りたくないけど、どちらが楽しめていたかというとそれは前者なわけで、それは損得勘定を忘れて仕事の過程を楽しめていたからに他ならない。
岡本太郎氏のように一瞬が全てで他は考えないとまではいかなくとも、損得とか効率とかそういうものを抜きにしてその瞬間に打ち込むそういったパッションは本当に大切だと思う。
でも、今の俺にはそれがどうも湧かない。
損得勘定する感情が大きくなりすぎて、山登りとかランニングのように苦しさの後に達成感が得られるものも徹底的に避ける始末。
こんな損得や苦楽で考えるようではいけないと思っても無理なものは無理。
幸せなんだけど、もっと自分の心の中にワクワクを作り出して生きたいなあ…。
上には楽しさを阻害する要因について書いたけど、今度は楽しさを作り出す要因について書けるぐらいになりたいよなあ…。
…とここまで書いて読み返すと「なんてあたりまえのつまらないことを書いているんだ」と愕然とするが、そんなつまらないことでもやはり考え込んでしまうのです。
刺激ばかりでも…