毎年、この時期になると被爆地では平和記念式典のような慰霊式典が行われるが、これに対しては俺も被爆者の無念を思って黙祷を捧げるのみである。
自民党はこの時期になって原爆症認定訴訟の救済策を打ち出すという露骨な手に出たが、「もっと早く解決してやれよな…」というのが正直思うところだ。
ところで、今年の原爆の日は他の年と様子が違うようである。
オバマ氏がプラハで核廃絶云々と口にしたものだからマスコミが報じるところの世間もマスコミも核廃絶報道一辺倒になっているのだ。
これに対しては、「オイオイ!」というのが俺の感想だ。
だいたいあれは、「アメリカもロシアも減らすのだから他の核所有諸国も減らせよ!おい!イランと北朝鮮!おまえらはそんなものを持とうとたくむことすら許されんのだぞ!」ということが言いたいのと、無駄に多く持つとテロリストに渡るリスクが増えるから気をつけようという意味合いと、アメリカがたとえ口だけであってもブッシュ時代とは違った方向に進もうとしていることをアピールするための戦略的発言であって、オバマ氏本人だってそんなことを本気で思っていないことなど誰の目にも明らかだろうと思うのだ。
だから、オバマ氏も自分が生きている間には実現しないときちんとことわっているのだ。
核廃絶などという夢物語をまことしやかに語るのは自由だが、それなら田母神俊雄氏が現地で演説をするのも自由であろう。
俺にとっては前者のほうがよほど悪い冗談なのに田母神氏サイドにはずいぶんと圧力がかかったようである。
田母神氏が言うとおり、もし、戦時に日本が核兵器を持ち、それを用いて確実に報復する力を持っているのならばアメリカが核兵器を使用することはなかったであろう。
そして、両方が核を持っていた場合、成熟した民主主義国家のアメリカは使えなかっただろうが、軍国主義の日本なら死なばもろともで使いかねなかったであろう。
そこから考えられることは、実際に冷戦がそうだったし、第二次世界大戦以降、核保有国同士は直接的な戦争をしていないように、民主主義国家が核兵器を持つ場合は歯止めが利いてお互いに戦争を起こせなくなるが、いざとなったら玉砕覚悟の手を打ちかねない独裁国家が持つことだけは何があっても阻止せねばならない…という回答が現実的に考えて導き出される回答であり、この回答は核不拡散体制という理不尽かつ不平等で現実的なコモンセンスである。
本来、広島市長や長崎市長が叫ばなければならないのは理想論ではなく現実論でもあるはずなのに、毎度毎度、画一的かつ思考停止的な核廃絶論議をするものだから俺の心に全く響かない。
「はい、みんな武器を捨てましょう」と言って捨てる者がいるというのだろうか。
正直に捨てた者がバカをみることが確実にわかっているのに、そんなことをする者は世界一のお人好し国家の日本ぐらいだろう。
核兵器の残虐さ、被爆者の悲惨さというのは被爆地である広島と長崎が世界に発信しなければならないメッセージであるが、核廃絶が発信しなければならないメッセージであるかどうかというと疑問が残るのである。
日教組でなくとも特に被爆地では、教育者が生徒に真面目に核廃絶のすばらしさを訴えるような「平和教育」を施していることが多いように思えるが、こうした夢物語の意見を語る前に、現実的なロジックも提示して選ばせているのであろうか。
「せんそうはいやだ」と言っている子供の意見などを見ているととてもそうは思えない。
大人になって「『せんそうはいやだ』と言ったところでどうにもならないこともある」ということを悟ってくれればいいのだが、どうやら、「夜に暗い道を女1人で歩くな」ということと同じぐらいわかりやすいこの話をわからないまま、大人になっても「せんそうはいやだ」と言うままの人が多いから困る。
急に話は変わる。
大人になってわかったのだが、俺が子供のときに想像していたよりも大人はずっとずっとモノを知らないことが多い。
電車に乗ったり、飲食店の隣の席の人の話を聞いているとほとんどが愕然とする程度の低さである。
本を読みさまざまな意見に触れ、自分の頭で考える習慣を絶えず続けていた子供のときの俺より何倍もモノを知らない。
ハッキリ言って、モノを知らないまま身体と見た目だけ一丁前に大人になっているというような人も多い。
知識人や左寄りの報道機関が、考え抜いてその結果として夢物語に到達することは多いが、それならばまだ救いようがある。
しかし、それは全体からすればごく少数派なように思える。
子供の頃から何も考えずに、子供の頃に植えつけられた夢物語をそのまま持ち越して大人になっている人間が多いのだとしたらこういった教育を施すことは問題ではなかろうか。
非核三原則の問題も、憲法の問題も、知識人やマスコミを恐れてきちんとしてこなかったからこんなにこじれてしまっているし、核兵器保有の議論も大真面目にしていいはずなのにそれを口にしただけで大臣を辞めなければならなかったりする思考停止ぶりである。
いやはや、原爆の日は毎度ながら日本人の思考停止ぶりを痛感する日である。