GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

男心と秋の空

秋の気持ちの良い日が好きだ。

 

10月になってなかなか晴れた日が訪れなかったが、今日は久々に晴れた。

秋のこういった天気の日々というのは、毎日が晴れていても貴重すぎて惜しい気持ちになるが、雨の日ばかり続いた後にこうした天気の日が訪れると貴重すぎて日が終わるのがもったいない気すらしてくる。

 

こんな日はただこんな日であるだけで幸せで感傷的な気持ちになれる。

日本にははっきりとした四季があるから、太陽の光が優しくて、風が少しだけ冷たくて、空気をとてもきれいに感じるこのような日々が、毎年必ず訪れる日々だとわかっていても絶対に飽きることがない。

春は春、夏は夏、冬は冬でそれぞれ風情があるが、私の場合、やはり、秋のさわやかな日に最もセンチメンタルな気持ちになれる。

 

でも、こんなに天気の日なのに室内から出られなかったりするとそれはそれでフラストレーションが溜まりそうな気がする。

私の場合は、運良く昼間に外を出歩くことができる生活を送ることができているから、季節の移り変わりを肌で感じることができる。

トレードも、部屋の窓を開け広げて、好きな音楽を聴きながら心地良い気持ちで行うことができる。

 

サラリーマンをしていた頃は、秋が忙しい会社だったせいもあって、秋は朝から夜遅くまで会社に詰める日が多く、夏→秋→冬という季節の移り変わりをあまり味わうことがあまりできないまま生活をしていたことを思い出すとなおさらそのことに感謝をしてしまう。

 

人間にとって、能動的に作り出す感動というのはとても大切で、それが人生における充実感を形作ることは良くわかっている。

しかし、能動的な感動というのは、その人の尺度によって満足度が変わることが多いから、それを存分に味わうのは意外に難しいことが多い。

 

プロ野球選手は、野球少年からするとうらやましくてしょうがない存在なのに、彼らは優勝できなかったり満足な成績を残すことができなかったりすると、うれしい気持ちより悔しい気持ちの方が上回ったりする人種でもある。

また、私にはプロキックボクサーの知り合いが多いが、彼らは辛い練習の日々を送り、その中で勝つ喜びと負ける悔しさの両方を味わいながら生きているわけで、彼らもまたしかりである。

 

しかし、受動的な感動は能動的な感動と違って簡単に得ることができるし、その感動の大きさもなかなかなものなのがすばらしいと思う。

ぷらっと旅をしても、天気の良い日に外を散歩しても、気の良い仲間と酒を飲んでも、すばらしいことを書いてある本を読んで新たな気づきがある時も、簡単に、しかも意外に強い感動を味わうことができる。

 

最近の私は、そういったふうに変に達観してしまい、あまり大きな野心を持たず、受動的な感動を味わおうとするばかりの生活をしているが、将来への漠然とした不安を別にすると、それはそれでとても幸せで心地良い。

 

まあ、まだまだ若いのだから老成しすぎるのも良くないとは思うのだけど、世間ではトレーダーって職業自体は野心的な職業に見られやすいこともあって、実際には腹の底にある野心が無くなって行きつつあることに危機感を覚えつつも、感性が受動的になっている私がいる。