私には英語力がないので、英語で書かれた本を読むことができない。
したがって、欧米の本を読むときは翻訳された本しか読めないのだが、私は欧米の人が書いた本を読むのが好きではない。
理由は至極簡単で、言い方が回りくどかったり、意味のない比喩が多くウザかったり、言い方が大げさで気持ち悪かったりすることが多いからだ。
しかも、その比喩にはたいていの場合何のウイットもないから読むのが苦痛になってくる。
そして、本が分厚い割には書いてあることがずっと同じであることが多い。
うんざりする比喩には以下のようなものがある。
今、たまたま手許にある、オリバー・ペレス&グレッグ・カプラ著の「デイトレード」という本をパラパラとめくってみただけでも色々とそのような比喩に出くわした。
以下が、そのごく一部の例である。
ローカルな消費者は、今や、グローバルな消費者である。ノースカロライナ州シカモア群の小学6年生の生徒でさえ、世界に目を向けることができる。
→「ノースカロライナ州シカモア群の小学6年生の生徒でさえ」って表記がウザい。
例えば、日本で「京都府相楽郡南山城村の小学6年生の生徒でさえ」って書くか?
私の秘密兵器とはトレーディングに対する私の純粋で混じり気のない愛である。この愛はピザや心地の良い昼下がりを愛するというレベルの、弱い愛ではない。この愛は、地球上の何者をも鎮め、抑えることのできない深遠な精神状態を意味する深いアガペのような愛である。
→この本を読み始めて読み終わる間までの間に、別の本5冊は読破した…。
それほどこの本を読み進めるのが苦痛だったのだろう…。
何故、ヤツらはああいうふうにクドイ表現を使うのだろう。
何故、ヤツらは言い方を微妙に変えつつ同じようなことをクドクド言い続けるのだろう。
また、彼ら自身、ああいうクドイ本を読んで嫌にならないのだろうか…。
私は、余程「この本は読まないと…」と強く思わない限りは欧米の本の訳書は読まない。
とはいえ、「この本は読まないと…」と思ってイヤイヤながらも読むことが数多くあるのがミソなのだが…。
そういえば、吹き替えの洋画なんかを見た場合も、声のテンションがわざとらしいほどに高いけど、あのテンションは自然なテンションなのか?
洋楽の歌詞にも架空の登場人物が出てきてそいつのことを延々と歌っていることが多いけど、日本ではそういう手法はとらないよな~。
歌詞のはじめに「デズモンドは市場に屋台を持っていて…」って平気ではじまるけど、邦楽で「宏は市場に屋台を持っていて…」なんて絶対に言わん言わん。
まあ、日本にも「そんなヒロシに騙されて」という曲がありますが…。