GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

「去るものは日々に疎し」と「出会いは別れの始まり」

徹夜で友人と飲んで家に帰った勢いで何となく書くこととした…。

 

私は、「去るものは日々に疎し」という言葉と「出会いは別れの始まり」という言葉を肝に念じて生活している。

 

子供の頃はともかく、大人になって友達が多い人と少ない人の違いは、大人になれば大抵人格はできてくることもあり、その人がどういう人格かということより、「自分から友人に連絡を取ろうとするタイプ」か、それとも、「連絡を待つタイプ」であるかのどちらであるかが最も大きな違いになっている気がする。

 

皆、自分では誘われることを待っているくせに、自分から誘うのは気が引けたりおっくうだったりすることが多い。

とはいえ私も、自分から飲みに誘うことより、人に誘われることのほうが多いのだが…。

 

だから、「断られたり、迷惑がられたりしたらどうしよう」という思いを抱いてまで、あえて自分から連絡を取る人というのは、それがそのご褒美となっているのかどうかはわからないが、例外なく良い人間関係を形成しているように思う。

ただし、調子が良い人や人を利用しようとする人は除いてのことである。

 

また、会った時には楽しい人でも、向こうから全く連絡をよこさないような人のことは誰しも薄情に感じるだろうし、いつも「忙しい忙しい」と言っている人には、実際にそうであったとしても人は寄りつかないと思う。

 

「去るものは日々に疎し」という言葉はさびしい言葉だが真実を表す言葉である。

だからこそ、その人のもとを去らないよう、その人にとって疎い存在にならないよう努力する必要があると思うのである。

文字通り「疎遠」になってしまったら、それが永遠の別れになりかねない…。

 

「出会いは別れの始まり」であることはわかっていても、お互いに惹かれ合い、認め合う友人とは疎遠になりたくないと強く願うものである。

 

おそらくは誰にとっても、死ぬ寸前まで続く人間関係や友情というのはほんの一握りであろう。

何となくそう思うからこそ、たまに、「おそらくは、いずれ疎遠になるのだろうから出会いは少ないほうが良い」と思うこともあるぐらいなのが、「それを言っちゃおしめーよ」と思いながら生きている。

 

しかし、そのような理由からか、私は、出会ってお互いに認め合った場合、そうであるからにはできるだけその関係を良好に長続きさせたいと思うし、だからこそ、あまり意味のない“名刺交換的な”希薄な出会いが好きではないのだが、私以外にもそう思う人は多いのではないだろうか…。

とか言って、希薄なことこの上ない「合コン」という場に、「頭数合わせ」という理由でたまに顔を出して、彼女に怒られる私ではありますが…。

 

また、十年ぶりに会って、「おう、久しぶり!」と挨拶するだけで何事もなかったかのように昔に戻ることのできる友情というのも確かにある。

でも、それは過去にかなり密度の濃い時間を過ごした二人にのみ生じる友情である。

しかし、そのような友人でも、特に住む場所が全然違う場合などには、正直、「これからコイツとあと何回会うんだろう…」などと余計なことを思ってしまうのだが、仕方ないこととはいえ、それがなんとも悲しい。

 

あと、「その友人が、二人で飲みにいける友人であるか」ということは、その人と関係が長続きするかということを測る良いバロメーターになると思う。

人を介してしか会えない・会う気がしないような友情は本物の友情ではないだろうから、そうだとしたら、それは大して大切な友情ではないと私は思う。

 

また、あまりしゃべらない口数の少ないヤツというのも、いくら仲が良くとも二人で飲みに行く気にはなれない。

私はそうなりたくないから、人と会うときはいくらかテンションを上げて良くしゃべるよう心がけている。

 

さびしいことではあるが、「自分から連絡を取る」ということと同じく、そういうこともまた、友情を維持するテクニックと言えるのではないのだろうか…。

 

また、「その本人が魅力的な人間でなくては、友人から大切に思ってもらえない…」と思うので、常に魅力的な人間でいられるよう努力をし続けなければならないとは当然ながら思っている。

 

とにはかくにも、このような感じで、私は、「去るものは日々に疎し」という言葉と「出会いは別れの始まり」という言葉を肝に念じて生活している…。

 

俺、まだ酔ってるのかなあ…?

 

明野