GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

「お国のために…」精神で自粛と不謹慎を用いた道徳統治

前回、7回連続で新型コロナウイルスのネタを扱ったので「次回は違うネタにしたいところである」と述べたのだが、結局は今回も扱ってしまい、しかも力作となった。

今回は国家の統治面に焦点を当てて意見を述べる。

今回の新型コロナウイルス禍で個人的にずっともやもやした気持ちを抱いてきたのだが、その原因を述べるとするとこういった部分にあるのかなというのが今回の内容である。

 

なお、今回はこのような題名で書いているが、道徳統治のおかげで良い方向に働いているのか、現状において日本では法の強制力を働かせずとも当局の奮闘と各自の自制によって欧米諸国よりも新型コロナウイルスの感染を上手く抑えることができている。

国家や社会の権威を否定して個人の権利と自由を尊重する個人主義が根づいている欧米社会では法の強制力を働かせでもしない限りは個人の行動を制約することが難しいために国や地域が法による強制力を持って新型コロナウイルスの感染を抑えようとしている。

 

ほぼ丸腰で自衛隊南スーダンやホルムズ海峡に派遣するほどに非常事態を想定しないことにしている日本国ではあるが、先日、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が整備され、緊急事態宣言をすれば要請ではなく指示を出すことができるようになった。

とはいえ、指示は命令ではないので罰則等がなく、強制閉店・閉鎖等は難しいようである。

命令の場合は補償を伴うことが求められやすいので、税の使い道という観点(例えばろくに税金も収めていない風営法許可店舗に税金を投じて補償するのには批判があろう)や権力の強制行使をなるべく抑制するという敗戦国ならではの反動的な観点からそこまで踏み込んだものにしていないのだと思う。

なお、安倍首相は3月27日時点で、「仮に都市封鎖のような事態を招けば、日本経済に甚大な影響を及ぼす」と述べており、現状では法による強制よりも、個々の自制を促すことによって危機の打開を図ろうとしている。

日本は自由主義国家でありながら江戸時代から続く村八分精神も残っているため、個人主義集団主義の両側面を有している日本国民をコントロールするうえで、現状において為政者は法律よりも道徳を用いて国民を動かそうとしているのだといえる。

日本でも買い占め騒動は起きているが、個人主義一辺倒の他国と比べればずっとマシだし、東日本大震災時の抑制が効いた秩序ある行動も集団主義的な側面を併せ持つ日本人の特性のたまものである。

 

ところで、世界のほぼ全ての国新型コロナウイルス感染対策に死力を尽くすのは、患者数に対して呼吸器等の機器や医療スタッフが不足することによる医療崩壊によって救えるはずの命を救えなくなるという事態を防ぐためという一点のためである。

もちろん、そうしなければ他国からのバッシングが尋常ではないレベルで起こり、永遠に出入国拒否されるという要素もあるにはあるが、煎じ詰めれば医療崩壊を防ぐという一点のために国家国民に対して多くのことを犠牲にすることを強制もしくは要請しているのである。

医療崩壊しないように少しづつ感染させて集団免疫を獲得する、もしくはワクチンが完成するまで完全に封じ込めれば感染者の1%以下しか死なずに済むのに、その過程の途中で医療崩壊をしてしまったらその確率が何倍にも上がってしまうことになるのだが、感染者していない人および感染した人のうち無症状に近い8割の人にとっては、国家や集団はともかく個人にとってはほぼ無関係なものなのに、国家が全員に対して多大な犠牲を強制もしくは要請しているということなのである。

単純にモデル化して、国を100人の村と考えたら、知りもしない基礎疾患を持った1人の老人の命を救うために他の人の財産の時価総額が2/3になったり、多くの人が倒産寸前の危機になっても我慢しろというのに等しい話でもあるのである。

しかも日本の場合は法による強制ではなく自粛要請なので、その経済的損失は自主的に丸かぶりしろというのに近く、言ってしまえば「お国のためにあなたが倒産しても知りません」「スーパーや薬局は激混みになって感染リスクが高まってもやむを得ないが、あなたのやっている業種は不要不急であり、感染のリスクもあってこのご時世に開けるのは不謹慎なのでできれば自粛してね」と言っているのに等しいわけである。

 

このように考えると、自業自得な側面が強い生活習慣病と違って、国民全員の強力が必要不可欠な感染症対策の場合、ある程度の休業補償は必要なのではなかろうか自粛要請と無補償よりも命令と補償のほうが上策だと思う。

それどころか、むしろ、命令と無補償のほうがまだ上策なのではないかとすら思う。

よりアンモラルなほうが得をする自粛要請ゲームより、命令のほうがフェアだと思うからである。

もちろん政府では経済支援策をあれこれ考えているようなのだが、とにかく今回の件で資金がショートするによる企業の倒産を防ぐことと 今回の件で収入を絶たれた家庭を支援する弱者を上手くすくって支援する策をできるだけ素早く講じて欲しいものだと思う。

そのようななかで収入が急減した企業に対して法人税や消費税や社会保険料の支払いを猶予する特例制度を設ける流れになったのはものすごくすばらしいことである。

 

自粛要請と強制とで、俺は強制のほうがフェアだと述べたのだが、法による強制ではなく自粛によって対応した場合、ロックダウンのような強硬な措置を避けられるために全体の損失が格段に少なく済むという側面は確実にあるので国も損失の最小化を図るために道徳による統治を行っているという面もあると思う。

そして、そもそも道徳による統治が難しく、法に反しない限りにおいての個人の自由を徹底追求する立場に立つ欧米諸国を統治する場合には、公権力の責任のもとにおいてロックダウンしたり、細かい外出ルールを設けたりして、違反行動は罰金や逮捕によって取り締まるということになるが、その結果として社会全体の損失は相当なものとなる。

 

道徳統治は社会全体の損失を抑えるうえではより効果的であるが、罰則を根拠にした法によって国民を監視するわけではなく、国民に自粛を求めていく場合には衆人環視が強烈に働くことになるので、社会は相当にギスギスしたものになる。

常日頃から「自分も権利を行使するから他人の権利も尊重する(有休は全部取って、サービス残業はせず、他人のストライキも尊重して、顧客と対等)」という欧米式の個人主義思考よりも「自分も我慢するから他人も我慢しろ(有休を取らず、サービス残業をして、ストライキもせず、顧客は神扱い)」という日本式の集団主義思考はより不幸感を生みやすいと思っているのだが、まさしくその真骨頂である。

そして、首都圏において感染が拡大しているのは圧倒的に匿名性が高く、個人主義が担保されやすいためで、「うちの県では何人が感染している」というような村八分機能が他の都道府県に比べて働きづらいからであるともいえると思う。

 

K-1 WORLD GP 2020 JAPAN K'FESTA.3を強行開催をしたK-1国民から総スカンを食ってしまったため、地上波復帰はもとより、再興すら厳しいのではないかというほどのダメージを負ったが、宝塚歌劇や寄席はそれほどのダメージを負わず、今週の金土日も六本木のクラブやライブハウスには構わずに営業を続ける店が多々存在している。

マスコミで取り上げられるか、ネットでバズるかといった非対称性国民情緒によって制裁の強弱が起きてしまっているのだが、言うまでもなくこれは非常に危険な現象である。

なお、行政からの要請の遵守の強弱についていえば、大企業は中小企業や個人よりも行政からの圧力にずっと弱いという側面もある。

ちなみに俺は「K-1の強行開催がこうも話題にならないのは何故?」と思って、3月頭から毎日毎日K-1のサイトの情報や周辺情報をチェックし続けていたのだが、俺が前回のブログに懸念をアップした後の開催前夜になって報じられて一気に話題になった。

 

なお、都内で外出自粛要請がなされた今週末における近所の銀座・有楽町界隈の大規模店舗の動向をチェックしたら東急プラザ銀座は昨日のうちから休館と発表していたが、今日になって再チェックしたら多くの店舗も休館することを決めたようである。

そのようななかで、例えば銀座三越は開けることにしているようだが、働いている従業員と顧客の両方とも“不謹慎”な立場であるということをこれでもかと自認して、さぞかしいたたまれない気持ちになるだろうなと想像する。

とはいえ、現地に報道機関以外の不謹慎ポリスがいないことだけが救いなのかもしれない。

また、「3つの密を避けろ」と言われるなか、確実に3つの密の要素を兼ね備えている酒類を提供する飲食店の経営者や従業員も毎日毎日背徳感でいっぱいで、だからといって背に腹は代えられないという気持ちでもいっぱいなのだろう。

悲しいことである。

 

法による統治は不自由であっても心までは縛らないが、道徳による衆人環視統治は人々の心を縛り、相互不幸を生むのではないかと思うというのが今回の総論である。

 

f:id:gooddays-shumai:20200327175644j:plain東京タワーをバックに昨日撮った満開の桜