本ブログでは幸福になるうえで必要な道は以下のような考え方だと繰り返し述べているつもりである。
- 足るを知る。
- 現状に満足する。
- 周囲と比べない。
- 周囲を気にしない。
- 自分に期待しない。
- 他人に期待しない。
- とにかく楽しいことをする。
- 嫌いな人とは関わらない。
- 時には諦めも肝心。
- 有名にならない。
子供の頃に近所の文具店に行って、「きれいな空とカッコいいブルートレインの絵を描くぞ!」と思いながら画用紙を1枚だけ手に取って、分厚さや触感を確かめつつ、画用紙の表面の模様を見て、空を描く時に絵の具をどのようににじませるかを想像するだけで興奮できていたのに、もしくは、8ビットのファミコンゲームに無限の可能性を感じていたのに、それを感じることができなくなる悲しさは、満足の閾値が上がってしまったことへの悲しさである。
できるだけその閾値を上げないように心をチューニングし続けるのが上記に述べた幸福への道だと思う。
今度は、飢えをしのいで生存競争に勝つ道というものについて考えると、以下に列挙したような考え方が思い浮かぶが、これが見事なほどに幸福への道と相反していることに驚く。
- 飽くなき努力をする。
- がんばって競争に勝つ。
- 現状に満足したら負け。
- 向上心を持つ。
- 時には我慢も必要で辛くてもがんばる。
- 生産性を上げる。
- 効率を上げる。
- 充実感を追求する。
- 不屈の闘志で諦めない。
- 成果のためには嫌いな人とも関わる。
- 現状維持は衰退だ!GDPを増やせ!他国に負けるな!需要を喚起せよ!ナイトタイムエコノミーを発掘せよ!
そうか!競争に勝つ努力や現状に満足しない精神は飢えをしのぐのには役に立つが、幸福になるには逆効果だったか!と思うわけである。
まさに俺の嫌いなスポ根、決して現状に満足することのないスポーツ選手や起業家の精神性は幸福への逆走だったかと思うわけである。
もちろん、スポーツには楽しむことが目的という側面もあるので、スポーツが不幸への道というつもりは全くない。
とはいえ、人類はこれらの努力をすることで発展してきたわけで、そのおかげでとりわけ先進国の国民は飢えや疫病から逃れることができた。
先人の努力に感謝することしきりである。
グローバル資本主義経済とその両輪をなす民主主義というシステムの上で払われた先人の努力の蓄積によって我々はそういった恩恵に預かることができているわけである。
その結果として、生活保護や刑務所レベルでも100年前の生活水準をはるかに上回る生活が可能となっているわけである。
しかし、幸福追求の立場からするともう十分だろうとも思うのである。
グローバル資本主義経済は万人を非情なまでに苛烈な競争に巻き込む。
食料品店をやっていれば近くにイオンモールができ、書店をやっていればAmazonに飲み込まれる。
教育は納税者とその競争に生き残る人材を育成する目的でなされ、世の中で人を紹介する時にはその人の職業で紹介するように、グローバル資本主義経済では客観的な人の価値は職業や経済力で測られやすい。
また、資本主義システムは成長が大前提となっているため、需要を創造することが至上命題であり、そのためにありとあらゆる手をつくす。
経済学者のジョン・メイナード・ケインズは1930年に「2030年までに1週間の労働時間は15時間になる」と予測していたが、仮に潜在需要が劇的に増加しなかったらそれは十分に達成可能であろう。
供給できなければ需要を満たすことができず、また、需要がなければ供給を抑制させられてしまうわけだが、仮に将来の潜在需要が現状とそれほど変わらないならば効率化によって必然的に供給に要する時間が減ることになるはずである。
ましてや今はケインズがいた時代と様相が異なって、AIが未来の社会に及ぼす影響についてのさまざまな予測が出てきている世の中である。
しかし、俺の見立てでは、需要はまだまだ創造され続けるように思え、また、それを満たすためにAIではカバーをしきれない職業がまだまだ見いだされるだろうと思うし、人々は1週間15時間労働で得られる生活水準では満足しないように巧みに誘導されるだろうと思う。
しかし、大衆と違う道を進むのは全く難しいことではない。
世の中にある数々の需要と労働への誘導トラップから自由になり、幸福に生きるための武器がまさしく「清貧の思想」であり、冒頭に述べたような幸福への道だと思う。