前にも述べたのだが、僕は宗教を信じておらず、あえて人生に意味を見出さないようにしている。
人生は単なる暇つぶしと思っているわけで、どうせなら暇つぶしを楽しみたいというぐらいにしか思っていない。
人生は単なる暇つぶしと考えるととても楽である。
そう考えると、運命はわからないから仕方がないだとか、他人と比較しても仕方がないだとか、成長しなくても気にしないだとか、要は足るを知るかが全てなどなど、楽に思えるようになることが多々ある。
その一つとして、僕は全ての時間は等価であると考えるようにしている。
もちろん、普通の10分と試験中や何かの本番中の10分とでは重みは違う。
10分早かったら乗れたのに、遅れてしまって飛行機に乗り遅れたという場合の10分は大きすぎる。
あと10分早く着いたら漏らさずに済んだのにと恨んだり、あと10分早くクリックしていたら大暴落に巻き込まれずにと恨んだりする10分の大きさは計り知れない。
これらの特別な10分とダラダラしている10分を同じというつもりはない。
しかし、今の10分をおざなりにしたから特別な10分がダメになるということはないはずである。
試験のヤマが当たったか、寝坊したか、腹が痛くなったかという事実はどちらかといえば運命にすぎないわけで、他のなんでもない10分との関連はそれほどないはずなのである。
もちろん、ものすごくがんばった10分を積み重ねた人とダラダラの10分を積み重ねた人の結果が違うということは容易に想像がつくが、それらはがんばり以外にも、タイミング・運・遺伝・才能に左右される部分が大きいわけだし、それをがんばることを苦痛に思う度合いも違う。
同じことをやってそれを苦痛に思わない才能や楽しく思える才能ほどうらやましい才能はない。
あと10分、あと10分とがんばる、がんばれることにはそういった色々な要素が絡んでくるわけで、むしろ自分でコントロールできない部分のほうが大きいかもしれないと思うほうが気が楽である。
そもそも、人生は単なる暇つぶしと思えば多少の結果であれば受け入れられるはずである。
結果は自分ではコントロールできない部分もあるが、結果をどう受け止めるかは完全に自分でコントロールができる。
時間は等価であり、今の時間と他の時間を比べる意味がなく、そもそも人生は暇つぶしであり大した意味はないと考えればどんなにダラダラ過ごしても自分を責める必要がなくなる。
意識高く過ごす人の過密な時間も、ニートの時間も、どの時間も等価であり、悪事でも働いていない限りはどの時間も肯定できるはずなのである。
時間は等価と思えば年末年始にどんなに食っちゃ寝で過ごしてもそれを全肯定できるのである。
今回はあまりひねりのない話だったので、写真ぐらいはとっておきを!