以前、資産課税の時代が来る恐怖という題材で書いた際に、「将来、以下のどちらの社会が到来するか予想がつかない」と述べ、以下の相反する社会を挙げてみた。
- 少子高齢化のために労働者が不足する社会
- AIの普及のために多くの労働者が不要となる社会
今度は後者のことで思ったことを書く。
前は「AI、AIってうるせーな。しょせんどんな機械よりミジンコのほうがずっと高度じゃん」と否定的に思っていたが、演算・成長・進化のスピードが機械だけに生物と比べ物にならないことを考えるとやはり恐ろしいと思うようになった。
AIが社会に普及することで不必要になる仕事は圧倒的にホワイトカラーの仕事である。
ホワイトカラーの仕事の多くが無くなるが、役所の許認可・裁量のために残念ながら生き残ってしまうような仕事も大変に多かろうと予想がつく。
いちいち薬剤師が必要なのかだとか、立ってるだけの鉄道運転士はいるかだとか、紙や印鑑はいつまで必要なのかだとか、そういったことについて挙げればキリがないぐらいあると思う。
教育に関しても個人的には20年以上前から「基本的に授業はカリスマ予備校講師のテレビ授業にすべきで、教師はどうしても人が必要な周辺業務をすべし」と思ってたが、これなどは判断次第でいつでも実行可能であろう。
そして、いくら役所が首を縦に振らなかったところで、世の中から多くの事務職は消えるだろう。
求人に関していつも思うのは、室内で座って仕事をしている事務職は慢性的に人が余り、外仕事や立ち仕事は常に不足しているということである。
そう考えると、座り仕事の事務職の給料は下げまくって、飲食業で働く人の給料を上げまくることこそが妥当であろうし、下手に移民を受け入れなかったならば早晩にそうなると思う。
そして、AIが普及するほどその流れは強まるのではないかと思う。
そもそもブルーカラーの仕事のほうがずっとキツいのに、ホワイトカラーの時給のほうが高いのはおかしいと僕は子供の頃から思っていて、これは個人的に学歴社会の欺瞞だと思っている。
建築業こそ民間の需給原理が働いて給与が上がっているが、保育士や介護職の給料は通常の公務員よりキツいはずだから高くなくてはおかしいし、少なくとも僕はそうでなければ介護の仕事には就きたくない。
いくら費用が掛かろうがやりがい搾取を続けるよりはずっと良いと思う。
そして、若い人が従事する仕事が室内での座り仕事で、65歳を過ぎた老人にさせる仕事が低賃金な室外での立ち仕事が多かったりするのも欺瞞に思う。
AIが普及すれば、より必要とされ、より時給が上がるのは立ち仕事や外仕事である。
これらの仕事はテクニカルなサポートを得られこそすれ、そう簡単にはAIに奪われない。
これからは多くの労働者が立ってまたは外で仕事をする求人ばかりが残る世の中になると思う。
もしかしたら仕事の半分が教育・育児と介護になるかもしれない。
座って事務職に就いている人はその仕事がなくなる時のことを想定して身体でも鍛えたほうが良いかもしれない。
僕は再び体力の時代が到来することを予想する。
そして、さらにAI化が進んで、超デキる真のエリート頭脳労働者と立ち・室外仕事以外の仕事の必要性がぐっと減り、仕事の絶対数そのものが需要よりずっと少なくなった社会の到来を仮定する。
仮定なので、全世界的、もしくは先進国では共通のトレンドとなった事態を想定する。
すると、仕事に就けない人たちは生産をする手段が無くなり、所得が無くなり、財産も無くなり、消費することができなくなる。
そうなると、もちろん人間が人間を見殺しにすることなど考えられないので、どうにもこうにもならないということで生活保護の拡大が必須となる。
かつ、贅沢可能な消費者数の低下によって、供給能力に対して需要が圧倒的に少なくなる世の中になってしまう悪夢を思うと、生産をしていない失業者にも是非とも消費者になっていただく必要性が出てくる。
そのような社会が到来した場合、社会のインセンティブを維持するために生活保護よりはベーシックインカムのほうが合理性を持つ。
昨今、ベーシックインカムの必要性について叫ばれ始めたのはこういったスキームでの話だと理解しているが、全くその通りで、働かない人は質素にのんびりと過ごし、才能・意欲・消費欲が強い人が働けばいいのである。
高度の地価社会では極めて能力の高い一人の能力は一騎当千だし、それどころかむしろ無能な人に働いてもらうのは逆に邪魔だろうからそうなるのが合理的だとも思う。
今の世が、専業主婦は2億円損をするとディスったり、人生100年だから70代も働けと煽る世知辛い社会なだけに、僕はこういう社会が来ればいいなあと思う。
本当に生産性の高い社会ってそういう社会をいうのだと思うからである。
まあ、僕はそういう社会が来る前に質素にのんびりと過ごすつもりなのだけど。
故・ピーター・ドラッカー氏は「企業の目的は顧客の創造」とぶった切っているが、今の世は、資本主義システムとマーケティングによって要りもしない需要を無理やり作って経済規模を膨らませ、地球環境に危機的な負荷をかけ、世界規模での弱肉強食を余儀なくされる自由競争地獄の様相を呈している。
自由競争地獄の結果としてのいつになっても労働時間が減らない強欲かついびつな資本主義社会よりは、「質素に暮らしていただく方は働かなくても結構です」というエコでのんびりとして多くの時間を家族と過ごす世の中のほうが個人的にはずっと好きだし、長い人類の営みを見てもそのほうが合っている気がするのである。
後半は、圧倒的な生産性向上によって到来したらいいなあと思う社会について個人的な夢を語ってしまいました。
これはおこぼれがないと実現不可な社会ですが、共産主義を志向して述べているわけでも、資本主義システムの人類史的な功績を貶めているわけでもないので悪しからず。
さらに申すと、「マーケティングに乗せられてしまわないことこそ経済成長の敵にして、人生を豊かにする要諦」だと僕は思っていて、故・中野孝次先生が著書「清貧の思想」で示された「清貧とは、究極のシンプルライフを指しているのであって、社会や商業が氾濫させる情報やモノやサービスに反応して生きるのではなく、己の内なる律に従って高潔・簡素に生きること」「所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させる」という僕の人生哲学にもつながってくるのである。