GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

共感できなくなるのは仕方ないことである

Facebookをやっているが、「ふーん、そうなんだ~」と思うことはあれ、心底「いいね!」と思うことは多くない、というか少ない。

 

でも、それが表層的なことしか書きづらいSNSの特性だから仕方ないのである。

人は奥深い部分で感心してこそ「いいね!」と思えるわけであり、「何にでもかんにでも、あれ食ったこれ食ったにまでいちいちいいね!と思ってられるかよ」と思う。

でも、俺は、あれこれ考えるのが面倒なので、あれ食ったこれ食ったのあまりに内容がない内容でない限りは、開封メールと未開封メールを分けるがごとく、読んだものには「いいね!」をクリックすることにしている。

押されて気分の悪い人はいないと思うし、押したり押さなかったりで差をつけるのが面倒なのである。


飲み会でも楽しんでいないわけではないが、同じ人と頻繁に飲むことは到底できないと思う。

それは、俺と人の共通点があまりに少なくてそう長いこと話していられないからである。

そして、人との共通点は年々少なくなっていくように感じる。


子供や若者にとっては、自分と友人の間における共通点や共通する話題は多いと思う。

お互いに未熟な意見や浅い意見を言ってもお互い様と許しあえる。

しかし、年をとると、引き出しこそ増えるが、個々が自分の思うように成熟していくなかで、共通点が減っていくのはあたりまえであり、立場や家族構成などが違ってくるとそれこそ共通する関心事項は少なくなっていくのが普通なのである。

自分が一つのことを深く考えていけば考えていくほど、人の中途半端な意見に接することに退屈さを感じるようになるわけで、個々がそのようになって行くほどおいそれと共通の話題にできることが少なくなるのは仕方ないことなのである。


もちろん、同じ昔話に毎回同じリアクションをし合って楽しめる人はその限りではないし、年をとっても「インスタ映え」などといってSNSの表層的なコミュニケーションに心底から充実感を感じられるのであれば歳をとっても共感力が減るということはないのだろうけど、俺はそれでは楽しめない。


人は年を取るにつれ、常識や如才なさを身に着けていくが、それと同じくしてどんどん個性的になっていくことが成熟するということであり、成熟すればするほど人との共通項が少なくなっていくのは必至だと思う。

俺は若者というのは経験が少ないため、基本的に個性が弱いと思うのだが、そのさらに上を行く子供の個性のなさや画一性というのはそれこそ仲間を作るための先天的な道具であり、これを有していないと阻害されてしまうわけで、自分を守るためには個性は邪魔ですらある。

しかし、人が大人になるにつれ、そのような道具は必要がなくなるわけで、年を取って常識と如才なさ身につけ、経済的に自立し、成熟して個性的になり、そして、自由になっていくのである。


そして、その代償として人との共感力が減っていくものだと俺は理解している。


過去を回顧しておもしろかった思い出を笑ったとしてもその話題をいつまでも引き延ばしていたくはないから、そういう話しかできない人とはそうそう会わなくて結構である。

昔にすごく仲が良くて久々に会った場合に、話すことがある人と話すことがない人がいるが、話すことがない人とはそんなに会わなくて良いなと思う。

最近は旧友と会うたびに「もしかしたらこれで今生の別れとなるのかもしれない」と思うことも多い。

これらのことは大人にとってごく普通のことだと思う。

 




若い時は誰とでも簡単に仲良くなれた