このところ、「幸せな気持ちになった時ログ」をEXCELに入力しているのだが、その多くが、湘南で海を見た、武蔵野の茶畑が美しい、稲刈り前の田んぼがたまらん、高原の白樺と熊笹萌え、キンモクセイがいい香り、秋の空と空気感が最高などといった美しい光景に身を置いた時への受動的感動ばかりなことに我ながら驚く。
仕事で上手くいったとか、ちょっと引き締まったとか、ギターのレッスン曲をやっとクリアしただとかといったことは、感動にまではなかなかなり難い。
ということは、美しい環境に身を置けば感動しまくりの人生を送れるのではないかと単純なことを思ってみたりするのだが、いろんな季節に、いろんな大自然を観に行くから飽きないのであって、ずっと同じところに居たら感動は薄れるんだろうとも思う。
ハワイや沖縄は結構飽きやすいと聞くことがあるが、それなんかそうなのかなとも覆う。
この家に引っ越してきたときに窓の外に東京タワーが見えた時にはとても感動したけど今ではあたりまえだもんな、同じように東京に住んでいるからこそ自然に感動できる面もあるのだろう、と逆説的に思って、負け惜しみ気味に自分を慰めることにしている。
ところで、これまで田舎暮らしに関する書籍は多数読んできたのだが、今述べた、能動的感動・受動的感動と絡めて、とある本に書いてあったことがあまりに心に響いたので、ここにその一部要約と個人的に思った感想をメモしておくこととする。
心に響いたことが書いてあったのは丸山健二氏の「田舎暮らしに殺されない法」で、そこに…
鳥籠から解き放たれて自由の立場を得たとき、生涯にわたって追い求め、徹底して打ち込める仕事や趣味を持っていて、即、そうした日々へ移行できるようでなければ、これまで無駄で無意味な人生を送ってきたことになってしまったと言えるのです。
「本当に打ち込みたいことやりたいことのない人生は自立しているとはいえない」「自立していない者に田舎暮らしは無理」
これは、定年退職後の田舎暮らしへの戒めとして述べられているのだが、丸山氏の意見によると僕は無駄な人生を送っているともいえ、自由な立場になるべきでないともいえ、自立していないともいえ、田舎暮らしは無理ということになる。
自立していない者には、本当に自由になってしまうよりも自らを不自由にする仕事があるほうが良く、また、暇をつぶしやすい都会生活が合っているともいえる。
田舎暮らしについてはすぐにそれをやる予定はないし、自由人だとか高等遊民のような身分になりたくても金銭的・年齢的にまだ不可能なのでこれも大丈夫なのだが、「徹底して打ち込める仕事や趣味」がないと「無駄で無意味」という意見にはハッとさせられる。
ここまでハッキリと言ってくれる意見にはあまり出会えなかったが、色々なことにそれなりに好奇心は持ち、一日に5時間程度は趣味に興じる自由時間を確保できているので多趣味の部類に入るとものの、我を忘れて打ち込むものがないことには真剣に危機感を覚える今日この頃です。
もっと能動的な感動も増やせるようになりたいなあ。