古代中国思想の中庸や知足を持ち出さずとも、上がる・得る喜びよりも下がる・失う喪失感のほうが大きいので、何事もほどほどなのが一番ということは人生の要諦なのだが、このことに気づかないまま生きるとマジで損をする。
過去にも、本ブログは自分の書きたいことを書き、アクセス数は追求しないということを旨としていると述べているのだが、書く以上はアクセス数が少ないよりは多いほうが励みにはなるし、ブログ村のランキングも気にはしていないものの下位よりは上位のほうが良いだろうとも思う。
現在のアクセス数は日に100~200アクセス程度なのだが、これを多いと思うか少ないと思うかは完全に本人次第だと思う。
機械が踏んでいたり、表示したものの実際には読まれていないこともあるだろうが、週に1回程度しか更新していない独りよがりなブログのアクセス数としては個人的には満足している。
同時に、仮にアクセス数が日に1,000アクセスに増えたとして、それが100アクセスに比べてどの程度うれしいかもわからないし、その喜びが100アクセスの頃よりも大きいままで持続するかといえばそういうことはないだろうとも思う。
逆に、日に1,000アクセスだったのが100アクセスに減ったら増える喜びよりも減る喪失感のほうが間違いなく大きいだろうなと思う。
もし、下手に有名になってものすごい数のアクセスを得るようになったら、長い目で見て日に10アクセスしかない場合よりもむしろ幸福感が阻害されるようになるのではないかと思う。
注目を浴びることにプレッシャーを感じたり、アクセス数を追求することに必死になってしまったり、反響によって書く内容を選んでしまったり、注目が減ることに対して喪失感を抱いたり、ブログを通じて承認要求を満たそうとしたりする図を想像するだけで恐ろしい。
そして、下手するとブログを書く上で最も大切であると断じても良い無名性まで失う図を想像すると本当にろくなことがないと思うのである。
無名性は匿名性と言い換えてもいいのだが、匿名という言葉は正体を伏せて実名では言えないことを言うというニュアンスも併せ持つ。
俺は匿名で書いているけど、どの街に住んでいるかを書いていれば、さまざまな属性や出来事についても多々書いていて、本ブログは決して匿名ブログとは呼べないと思うので、実名で書いている心持ちで書いているのだが、そんなことよりも、取るに足らない泡沫であることが代えがたく大切と思っているわけであり、それであえて無名性という言葉を用いている。
なお、俺がブログを書く上で譲れない一点は「書きたいことを書く」という一点である。
無名人が読まれるためのブログを書こうと思えば、読み手が求める内容を書いたブログを書くというのが最大の近道であろう。
しかし、読み手が求める内容、読み手におもねる内容を追求するとどうしても「書きたいことを書く」という一点を守りきれないように思うのである。
もちろん、読み手が読みたいことと書き手が書きたいことの二者に共通する要素はあると思うが、全てが共通するということは断じてなく、必ずどちらかを優先させなければならない場面が出てくると思うのである。
そういう時に俺は迷わず書きたいことを書くというほうを取るということなのである。
もちろん、一度ぐらいは読み手が求めるブログを書いてアクセス数を追求してみてはどうだろうと考えたこともなくはないのだが、そういう気にはなれない。
読みたいことを書くのがプロフェッショナルの仕事とするならば、書きたいことを書くのはアマチュアのやることである。
俺は、他律・不自由なプロフェッショナリズムよりも自律・自由なアマチュアリズムを強く重んじるがゆえに何にも縛られない仙人のような生活スタイルを送れるような生活環境を整えたのであり、ブログを書くことにおいてもその一点だけは頑なに守らねばならないと思っているわけであり、だからこそ「俺」などという不遜かつ極めて好感度の低い一人称を用いているのである。
余談だが、俺が友人とLINEでやりとりする際に用いている一人称は「わし」である。
あと、誤解のないように述べておくが、どうしても社会に伝えたい・問いたいことがあって、強い情念を持ち、プロフェッショナルの心持ちで何かを記すことの尊さは俺ごときが駄ブログを書くこととは比べ物にならないほどに尊いことであり、ないとは思うが、仮に俺にそれだけの情念が湧いたならば、プロフェッショナルの心持ちで文章を書きたくなるかもしれないとは思う。
なお、「転石苔を生ぜず」という意でのローリングストーンと苔とでは一般的にはローリングストーンであるべきと語られることが多いが、俺は苔でありたい。
ローリングストーンはあれこれといろんな変化をして、変化の中で進化を遂げるということだが、プロフェッショナルなビジネスの世界では確かにそういった姿勢が強く求められるであろう。
しかし、外部刺激的・非日常から得る満足よりも、内的・日常のなかにあるささやかな満足を重視する「わびさび」のような姿勢が、自分の幸福を追求するのにとても適していると俺は考えている。
そういうわけで、俺は今43歳だが、27歳だった2004年からひと月も空けずにしつこく続けている本ブログは、無名のまま盛り上がりも盛り下がりもせず、淡々と細々と単調に百年一日のごとく、自分の内的な日常に溶け込ませて苔のように続けていきたいと考えているのである。
以下余談。
一昨日に隅田川河川敷の階段でネズミの死骸を見つけた。
連絡したのは俺だけではなかったかもしれないが、暇人の俺が昨日の午後に当局に連絡したら、本日の午後に高齢の職員さんが来て回収してくれた。
外は涼しいけど腐敗し始めたらどうしようと思ってずっと心がざわざわしていたのだが、迅速に回収してくれて本当にありがたかった。
浜離宮庭園ではキバナコスモスが咲いてます!