GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

理不尽の必要性についても考えてみる

最近の犯罪事件を見ていると狂った者勝ちになっていていたたまれない。

 

いかに責任能力がないかを実証するかが裁判にカギになっているフシさえある。

弁護する側もバカバカしくなることだろう。

もっとも、同情の余地のない犯罪者の弁護をする弁護士の気持ちなんぞ一般市民に推し量れたものではないが…。

 

同様に裁判員制度なんて考えるだけで恐ろしくなる。

これについても犯罪者がいかに裁判員にとって同情されるかによって刑の重さが決まるかと思うと恐ろしいことこの上ない。

 

私は犯罪事件なんてものすごく特異な人間がやることにすぎないと思っていて興味がわかないので、基本的に犯罪関連のニュースは見ない。

時間の無駄なので一般のニュースのみを見る。

 

「とにかく人を殺したかった」というようなイっちゃってる理由はともかく、「親が仕事をしないことをうるさいから殺した」だとか「日頃から言い争いが絶えなかったから殺した」というような、問題の解決手段をあまりに間違ったものが多いのも気になる。

特異な人間がやることとはいえ、責任能力うんぬんもだが、あまりのこらえ性のなさや問題解決法のおかしさが気になって仕方ない。

 

最近勝手に思うのだが、この種の人間は少年期などに理不尽的な圧力を受けたことがないことが多いのではないかと想像する。

軽度のいじめや体育系の部活やモーレツ系の会社や鉄拳教師や陰険教師のような理不尽な圧力にもまれていれば、世の中にはどうしても思い通りにならないことがあるということを勉強するはずなのだ。

 

人生では理不尽に耐えることが必要になることを学び、逆に、他人に理不尽な思いをさせないようにしようという想像力が芽生えるはずなのだ。

 

教師や先輩など暴力を肯定するつもりはないし、むしろ全力で否定するが、あれがあったのとなかったのとでは私のその後の人生に与える影響が大きく違ったことだけは確かだ。

親兄弟ではない赤の他人から殴られるという屈辱的な経験が、どれだけ自分の人格形成に役に立ったことか…。

 

現在の教育はそういうものを極力排除するという「正しい方向性」の上にあるが、そういう教育が作り出す未来はもう少ししたらハッキリと見ることができるのであろう。

 

徴兵制とまでは言わなくとも、ガチの格闘技でもやって泣きべそかくところまで追い込むのは良い教育になると思うのだが、そんなことは無理だしなあ…。

 

ところで、現在、会社で新人D氏の教育をマンツーマンでやっているのだが、彼は理不尽な世界を垣間見てきたようなので気兼ねなく教育できる。

やはり人間は修羅場をくぐったことのある人間のほうがいい。

とはいえ、徹底的に納得がいくまで説明してモノゴトを進めるのが私のやり方なので私のやり方には一切理不尽はないはずのだが…。

 

ところで、今回の文章はあんまり考えずに勢いで書いた文であるが、よくよく考えて未熟なことを書いたなあとここまで書いて思う。