今日はバナナと結晶の話です…。
少し前に新田さんが江本勝氏著・サンマーク出版の「結晶物語」という本を手に、「この本に書いてあることすごいよ!」と言いながら私に見せてくれたのだが、水に音楽を聴かせると、聴かせる音楽によってできる結晶が違うというようなことや、「ありがとう」という紙を張った水と、「ばかやろう」という紙を張った水とではその結晶のかたちが全然違うというようなことが書いてあった。
私は科学的でないことについては実際に自分で試したくなるクチなので、この実験をするためにバナナを買って実験を試みた。
下の写真の写真の左のバナナには「ダメ」「アホ」と書き、右のバナナには「いい子◎」と書いて様子を見ることとした。
初期状態は「いい子」のほうが古めな感じだったが、「そのほうが結果がきちんと出るだろうと」思ってそのようにした。
新田さんが前に同じようなことをやった時には「両方とも熟れるんだけど、褒めたほうは美味そうに熟れるんだよね…」と言っていたわけだが、私のバナナだと写真のようになった。
写真は実験開始から約1週間が経った現在である。
外観の比較だけでは飽き足らずに実際にむいてみたのだが、個人的には、確かに外観も身も「いい子」のほうが美味そうに見えるのだけど、それは気のせいだろうか?
…で、両方とも「すぐに食べないと不味くなるかな?」と思って、夜中だというのに食べてみたのだが、確かに「いい子◎」のほうがマイルドで数段美味かった。
とはいえ、実験対象の数が少なすぎるため、「まあ、今回のケースがたまたまそうだっただけかも…」という思いは捨てきれてはいない。
ここからビミョーに話が変わる。
私は「スピリチュアル」「シンクロニシティ」「魂」「神」といった言葉と全く縁がない。
むしろ、悪徳商法を営む類にこのような言葉を使いたがる輩が極端に多いこともあって、このような言葉に強い嫌悪感すら抱きやすい。
また、これらの言葉に実感したことがないから、これらの言葉を現実のものとして受け止めることができない。
偶然に会いたかった人に出会っても、単なる偶然としか思えないし、思いがけない幸運や不運も絶対に必然だとは思えない。
良いことをしていいことがあっても、その行為のおかげでいいことがあったとも思えなければ、その逆もない。
それゆえに信仰心もなければ、非科学的なことを信じる気持ちもない。
しかしながら、「こんなことをしたらバチが当たるな…」「むやみな殺生はいかんな…」「飯は残したらいかんな…」というようなことを思うことは多々ある。
しかし、本当に辛いことがあると「これには何か意味があるんだ…」だとか、「これは試練なのだ…」と思ってそのことに対する意味を見つけないとやってられなくもなるのであろう…とは最近になって思うようになった。
身内が亡くなった時に、その人の霊や精神的なものも一緒に無くなってしまったと思うことが耐え難いことであろうことぐらいは簡単に予想がつく。
そういう意味において、霊的なものを一切信じずに生きていられるというのは幸運なことであり、まだ、本当の辛さを知らないということなのかもしれない…。
【追記】
バナナだけでよしておけば良かったものを、バナナに食欲を触発されて、このおデブちゃんは前に夕食は前にしっかりと食べてしまっているのにも関わらず、チャーハンと餃子を食べてしまいました…。
ダメ・アホな子です。