GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

2005年総選挙時における日本の政治について② 造反行為の是非

友人のT氏と新宿のスポーツバーでサッカーを観て、飲んで家に帰ったばかりで酔ってますが、第2回目です…。

造反行為の是非

民主主義とはオールorナッシング=多数決の原理であり、基本的に残酷な原理である。

多数決とはいっても議論が尽くされた上での多数決という前提条件がつくにはつくのだが、日本人にはこのことがわかっていない人が多いようで、お互いに妥協して落としどころを作って敗者を作らないことが民主主義だと思っているフシがあることが多い。

 

基本的なこととして、自民党議員は多数決で選ばれて総裁になった小泉首相公約を遵守する義務を持つはずである。

そうでないのならば、無所属で議員活動をするか、次の総裁選で自分らの擁立した候補を首班に据えられるよう耐え忍んでがんばるべきなのだ。

はじめから「国民新党」のようなものを作っておけば良かったのだ…。

何でも党議拘束にしてしまって良いのかという議論はあるだろうし、別に違う意見を持つことは構わないが、党議拘束と決定されたことを破るのは政党の議員としてあるまじき行為である。

 

なお、郵政民営化小泉首相が党総裁選で公約としただけでなく、国政選挙で党の公約にもなった。

それに公然と造反した反対派の行動は、政党政治の原則からいって許されるものではない。

いくら国民や立候補した地方の住民によって選出された議員であろうと、政党に属する一政党人であるならば、多数決の原理に従うのは当然なのである。

この一点で反対派議員には理がないといえる。

 

約束事を平然と破ったのだから、公認されなかろうと、逆に刺客を立てられようと、それは仕方のないことなのである。

これを「民主主義がどうの、独裁がどうの」と言うのは、単なる論のすり替えか、もしくは政党政治についての理解が足りないかのどちらかであろう。

 

これも勘違いされているフシがあるが、政治はトップダウンで行われるのが普通である。

何故ならば、選挙で直接選ばれ、国民に対して直接に政治的な責任を持っているのはトップ(間接的にではあるが国民に承認された内閣)のほうであり、ボトム(官僚・族議員[→議員は立法府に属する立場であり、行政を執行する立場にはない…])のほうではないからである。

 

アメリカの政治は日本とは比べ物にならないぐらいにトップダウンである。

その代わり、大統領(政権党)が変わるたびに日本でいう課長クラスから上ぐらいのスタッフがドラスティックに入れ替わる。

なので、政権が代わってしまえば、政策の継続性だとかそういうものはほとんどなくなってしまうのである。

権限と責任の所在が極端なまでにハッキリしているのがアメリカ式なのだといえる。

 

ここのところは日本においても多少はトップダウンが発揮されてくるようになったようで、官僚や族議員の根回し頼みだった政策決定が経済財政諮問会議での首相の発言に左右されるようになった。

とはいえ、政府の仕事はいまだに霞ヶ関の官僚が自ら決めており、その官僚が族議員らにきっちりと守られているため、国民が介在できるシステムになっていない。

イギリスでは政党議員と官僚の接触は原則として禁止されているというが、日本には言わずもがなの鉄の連鎖が存在している。

 

このような癒着を断ち切り、責任の所在がハッキリした政治を行うために、日本は現在の小泉政治以上に政治主導になるべきだと思う。

だからこそ小泉氏にはがんばって欲しいと私は思う。

ドラスティックな改革はトップダウンでないと実現しないのである。

 

「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治体制よりもマシである」とはウィンストン・チャーチルの言葉であるが、民主主義は最も非効率的な政治体制であり、独裁は最も効率的な政治体制である。

そのようなことは現在の中国や戦前・戦中ドイツや日本を見ればすぐにわかる。

 

民主主義にはそれだけのコストを払う価値があるのだが、民主主義の根本である多数決の原理までにまでダダをこねだしたら何の改革も先には進まない。

それを「独裁」と呼ぶのは実に幼稚な発言であるといえよう。

そして、長らくそれを野放しにし続けてきたのが、「自民党的手法」であり「自民党的政治」というヤツなのである。

 

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