8月8日も色々と書いたが、2005年総選挙が行われる現時点における日本政治の状況について思ったことを書いていきたい。
ちなみに8月8日に書いたのは以下の文である。
なお、このシリーズは全10回ぐらいのシリーズとなります…。
長くてすみません。
ところで、8月8日に書いた時に、1日のアクセス数が普段の2倍近くの1,200件に達したのだが、あんな長くてつまらない内容をそれだけの人に覗いてもらえてもらえたことは正直うれしかった。
小泉首相の選択の是非
まず、小泉首相の選択の是非について述べる。
小泉首相は今回はかなり大胆な行動を選択したが、私はこれを基本的に支持する。
ここに至るまでには多くの経過と伏線があったように思う。
以前行われた、道路公団改革において、「こんなに骨抜きにされたんじゃやってられない…」ということで委員を辞任した松田昌士氏・川本裕子氏・田中一昭氏側と、なんとか形にしようとした猪瀬直樹氏・大宅映子氏側と、悪役の今井敬氏や中村英夫氏側の3つに別れ、結局は猪瀬氏らが残って成立にこぎつけたが、その結果にできた法案は骨抜きそのものと言って良いようなお粗末な法案であった。
ちなみに私の道路公団改革に対する考えは2005年3月6日の「何でも民営化すれば済む話か」に述べた通りでちょっと違ったところにある。
また、年金改革においても同様に骨抜きな内容に終わりそうだし、三位一体改革も骨抜きにされそうな勢いである。
…とこのような感じで、これまでの小泉改革はほとんどが骨抜きの改革にされてしまったままここまできた。
ただし、これらの問題もそうだし、有事法制・拉致問題・憲法や教育基本法改正などについて一定の道筋を示したが、これらは他の政権では斬り込めなかった懸案でもあり、こういった問題に踏み込んだという点においては小泉政権は評価されても良いと思う。
しかしながら、このように、これまで小泉政権が取り組んできた改革は、首相が裁定した後にすぐに族議員や役人が骨抜きに走って、改革色の薄い法案にされてしまうという悪循環を繰り返していたのだが、今回の郵政法案もまたかなりできそこないの法案にされてしまった。
あまりにお粗末な改革ばかりが行われるから、多くの国民は「こんなならば民主党に政権を任せたほうがマシなのでは?」と思い始めていたし、基本的に保守的な施策を支持する私も同じ理由で民主党に投票してきた。
族議員を抱える自民党よりは労組色の強い民主党のほうがまだマシと思ってきたのである…。
しかしながら、こんな郵政法案であっても通らないよりは通るほうがまだマシであるとは私はもちろんのこと、経済界の多くのお偉方も思っていたことは新聞などを読めばすぐにわかる。
新聞等の記事を読む限り連合=日本労働組合総連合会を除いて、反対勢力を支持している経済人は皆無であった。
ちなみに、私の考えは2005年3月1日に「郵政民営化問題の本質」という項で述べた通りでちょっと違うところにあるのだが、私も否決されるよりは可決されたほうが良かったと思っている。
だが、郵政法案は参議院で否決された…。
それも、「特定郵便局長会の票が欲しい」「公共事業の原資を失いたくない」「既得権益のためなら国民の資産が非効率極まりない使い方をされても構わない」「何を犠牲にしても地方の郵便局の利便性を維持したい」…という奇特というか時代錯誤な考え方を持つ議員らの力によって否決された。
小泉首相は郵政改革以前の改革について自画自賛をしているものの、あそこまで骨抜きにされ続けてしまったことを良く思っていなかったことは簡単に想像できることであり、ただでさえ、抵抗勢力に対して心中穏やかでいられるはずがなかったのだと思われる。
そのような中で「抵抗勢力」は、小泉政権が「改革の本丸」と位置づけて、最も政権の命運をかけていた法案である郵政法案を廃案に追い込もうとしたのだから、「このような獅子身中の虫は殲滅するしかない」と小泉首相が思ったであろうことも致し方ないと思う。
小泉首相は「何の改革も行えない、国民のためにならない自民党はいらない」「改革の邪魔をする勢力を一掃する必要がある」というふうに思ったのだろうと私は思う。
獅子身中の虫はむしろ敵よりもやっかいな存在だということは、嫌な取引先と嫌な同僚のどちらが嫌かを考えればすぐにわかる。
こういった議員は時代の要請からして消滅するべきなのだ。
ところで、この殲滅作戦は、一つはより良い政策を実現するため、もう一つは自民党的な政治の進め方を壊すために実行されるべきであると思う。
小泉首相は「殺されてもいい」と言い、また、「古い自民党を壊して、新しく改革を進める。 国民の幸せを考える新生自民党を創るんだ」というような言葉を用いたが、それらの言葉に何も感じない人は少なくなかったのではないかと思う。
言うまでもなく、内閣の中で最重要法案として位置づけられている郵政法案を否決をさせることは、内閣不信任案が可決されていなくても、事実上、小泉内閣に内閣不信任を突きつけたことになる。
内閣不信任ということは総辞職か解散をしなくてはならないわけだが、国民を無視して“5人組”が誕生させた森喜朗内閣発足の記憶を思い出すまでもなく、内閣総辞職して与党内で次の首相を決めるよりは解散をして国民に信を問う方が利にかなっているといえる。
本来は参議院を解散すれば良いのだが、参議院には解散がないので、国民に信を問うための手段として衆議院の解散に踏み込んだのも理解できるところである。
現在ではそれによってしか国民の信を問う方法がないのだから…。
なお、参議院の問題点については第6回に書きます。