GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

小さな罪を諌める努力

私が生きていくうえで最も大事にしていることは、自分への誇りを持てる生き方をすることである。

 

だから、「自分の生き方に傷がつく行為はできるだけしないようにしよう」ということだけは心に決めている。

信仰がないので、自分に誓わないと歯止めが効かなくなるからだ。

そうでなくても、止むを得ないときには歯止めを外してしまうことがあるので、そう心に決めて自分を戒めておくようにしている。

そう決めておくことで、自分への誇りに傷をつける徳の低い行為をかなりにおいてせずに済む。

 

とはいえ、その行動規範は外からのものにおもねられたものというよりは自らの中にあるのがちょっと問題であるのかもしれない。

普通であれば「規範外」の行動が、私の中では「規範内」として処理されることがままあるからだ…。

 

まず、電車内で携帯電話が鳴った場合、「絶対に他人の迷惑にならない」と自己判断できる場合には電車内であっても電話に出る。

 

また、ド田舎道でどうしても小用がしたくなったときなどは草むらで立小便をすることはあるであろう。

「今日、ここで立小便をするという徳の低い行為をするために、普段、徳を積み上げているのだ」というふうに片づけてしまうので便利というか勝手でもある。

 

年金の滞納もNHKの未納もそれと同種の理由で片づけているが、そのことによって、自らへの尊厳が傷つく感覚は今のところ、私にはない。

 

また、身勝手なもので、過去には好きでもない女性と性的関係を持ったことも何度もあるが、そのために相手を傷つけてしまったとしても罪悪感などは生まれなかった。

 

あとはケンカだが、男のケンカは人間の動物的本能の争いだと思う部分があるので、売られたケンカは積極的に楽しもうとする。

幸か不幸か、めったにケンカを売られないし、また、誰も殴りかかってこないので、今ひとつ楽しむことができなのだが…。

 

無駄な話がすぎた…。

 

多くの人は私と同じく、自分への誇りを持てなくなるような行動をとらないように気をつけて生きているものだと思う。

今、この文をお読みになっている方も、もちろんそうであろう。

 

しかし、世の中には、明らかに悪いことで、かつ、明らかに自制できることなのにそれをしない人が本当に多い。

そして、自分の行為の場合は自制が可能だが、他人の不届きな行為に対してはそれを制するとトゲが立つのでそれをしないことが多い。

特に、調和を重んじる日本社会においてはそうである。

 

タバコの吸い殻を路上に捨てる行為、路上にツバや痰を吐く行為、路上のものを意味もなく蹴る行為などをした場合、気心のしれた友人であれば注意するが、他人・そこまで気心がしれていない友人・目上の人などに対しては注意をしないことがほとんどである。

 

友人がゴミをポイ捨てしたらそれを拾って自分のポケットにしまい、路上に捨てた吸い殻の火を踏み潰すこともしない友人の代わりにそれをこれ見よがしに踏み潰すぐらいの抗議行動はするがそれで精一杯である。

 

この場合は相手もいい大人だから当然といえば当然なのだが、大人が相手でなく、子供が相手の場合も親のような者がいなければ注意をするし、最も不届きな行動を起こしやすい若者の場合も単独であれば注意するし、集団でいる場合は私ですら多少は尻込みする。

酔っ払いは難しいところであるが、私は酔ってハメを外すヤツが大嫌いなので酔っ払いにも常識的行動を強要するタチである。

さすがにアカの他人にはしないけど…。

 

小さな罪を諌めることができない社会が大きな罪を引き起こす原因になっているということは確実にいえるであろう。

調和と同調を求められる社会だとはいえ、小さな罪を諌める努力を個々が持つ社会になって欲しいと思う。

 

あと、私のように、神仏を尊びはするが、神や宗教の類を一切信じない無頼漢も、自分の力でなんとか自らの心をコントロールしようとするが、それではたまに方向性を見失うことが生じたりする。

 

生き方の方向性を見失わないように努力していくうえで役に立った本として、スティーブン・R・コヴィー著の「7つの習慣」という本があったことを一応挙げておく…。