シルクロードへの憧れ
子供の頃、「死ぬまでに一度はチベットのラサに行きたい」と思っていたのだが2016年にもう行ってしまった。
しかし、古来よりモンゴロイド人種およびコーカソイド人種と、東西文明の交差路であり続けた中央アジアも気になって仕方がなかった地域である。
幼い頃、オペラ「イーゴリ公」第2幕の「韃靼人の踊り」の妖艶な楽曲や、ドイツの音楽グループ「ジンギスカン」の曲やパフォーマンスのような誤った世界観を脳内に植えつけてしまって、変な妄想ばかりを膨らましていたのだが、中高生になるにつれ、モンゴロイドとコーカソイドが入り混じってオアシスで交易をしたり、東西分け目のタラス河畔の戦いだとか蒙古襲来などいった国々の攻防や栄枯盛衰を繰り広げたりしてきたかの地の歴史を、年代別の世界地図や図書館にある図鑑などを延々と眺めながら勝手に興奮していたものである。
そして、中央アジアの地図を見て、古のオアシスの都がことごとくウズベキスタン国内にあるということに気づき、「中央アジアで行くならウズベキスタンだ!」と思っていた。
2016年にカリモフ大統領が亡くなり、ミルジヨエフ氏が大統領に就任して以来、ウズベキスタンは一気に観光路線に舵を切り、かつ、2018年2月に日本人のビザが免除されるなど、かなり旅をしやすい環境が整ったのでこのたび行くこととした。
ウズベキスタンについて俺なりにまとめてみた
ウズベキスタンについて調べたり、読んだりしたことをもとに「これは!」と思う知識や俺なりの考えをまとめてみた。
ウズベキスタンって馴染みがないけど興味が湧く国なんだなと思ってもらえればありがたく思う。
参考とした文献は明石書店の「ウズベキスタンを知るための60章」を中心にしているが、他にも数冊の文献に目を通したり、Wikipediaなど様々なサイトを調べたりして咀嚼したことを、毎度のごとく俺の視点と主観とアドリブでまとめた。
なお、この項の内容は興味が湧かない場合には読んでも苦痛なだけだと思うので、その場合には、後半の「各訪問地の感想」と「その他の雑感」の項だけを読んでいただきたいと思う。
多民族国家ウズベキスタン
「~スタン」という呼称は「~が多い場所」という意を持つペルシャ語由来の言葉らしく、ウズベキスタンは「ウズベク人が多い場所」という意を指している。
実際に、ウズベキスタンはウズベク人が人口の8割程度を占め、国民のほとんどがイスラム教を信仰する国なのだが、歴史的にこの一帯が民族の交差路でもあり続けたこともあり、現在も多くの民族が住む多民族国家となっている。
なお、キルギスのみが国内の他民族への配慮と「~スタン」の持つイメージと一線を画すためにキルギスタンからキルギス共和国に改称したようである。
ウズベキスタンには朝鮮系の高麗人が20万人ほど住んでいるが、これは第二次世界大戦前にソ連沿海州付近に住んでいた高麗人が「日本の味方をするのではないか」とソ連に思われたため、中央アジアに強制移住をさせられたものである。
ウズベキスタンの庶民の料理にナムルが浸透していて、バザールにナムルが陳列されているのはこの影響である。
ウズベキスタンの地理的特性
人口は2018年現在で約3,257万人で、中央アジア5ヵ国で最大かつ、中央アジアの約半数の人が住んでいるが、ソ連崩壊後の独立時には2,000万人程度だったのにそこから現在の人口まで増えたため、国民の平均年齢はかなり若い。
また、中央アジアには7,200万人程度の人が住んでいるのだが、日本の10倍以上の面積の持つ地域に日本の6割弱程度しか住んでおらず、8,000万人を超えるトルコやイランよりも人口が少ない。
ウズベキスタンはリヒテンシュタインとともに世界に2つしかない二重内陸国であり、国境線を2回以上超えないと海にアクセスできない国で、かつ、他の中央アジア4ヵ国とは国境を接しているものの、中国・インド・ロシアといった大国とは国境を接していない。
国が海に面していないと物流や貿易にはかなり不利に働くのだが、さらに大国に接していない二重内陸国であるというデメリットはウズベキスタンにとって相当不利に働いているものと思われる。
夏の気温は日本より少し高いが乾燥していて、冬の気温は日本より少し低く、多くはないものの冬に降水があり、主に雨よりも雪が降る。
ウズベキスタンは12の州と西方の乾燥地帯にカラカルパク人が住むカラカルパクスタン自治共和国からなっている。
国土は日本の1.2倍の広さがあるものの、西部にはキジル・クム砂漠があり、かつ、国土の8割は半乾燥地か乾燥地のため、人口は東部に集中しており、なかでも最東部にあり肥沃なフェルガナ盆地の人口密度が高くなっている。
人口240万人のタシケントは中央アジア5ヵ国最大の都市で、騎馬民族が住んでいた北方の草原地帯と農耕を行ってきた定住オアシス群の境界域に位置している。
なお、タシケントにおけるウズベク人の割合は6割程度と低くなっているのだが、ソ連時代はロシア人とウクライナ人がタシケントの人口の過半数を占めるほどに多かったそうである。
彼らの何割かはソ連崩壊後に経済的な理由などからロシアなどの他国に移ったようで、現在はむしろウズベク人の割合が増えているようである。
また、タシケントはソ連がサンクトペテルブルクをモデルとして西欧風の新市街を建設したため計画的かつ重厚な街並みが形成されている。
ウズベキスタンにとって、パミール高原や天山山脈から流れるアムダリア川・シルダリア川・ザラフシャン川が水資源の生命線だが、これらはいずれも上流に位置するタジキスタンやキルギスから流れるため、下流にあるウズベキスタンとトルクメニスタンにとって水資源管理の取引はとても重要であり、ウズベキスタンはこれらの国に水利関連施設の維持費を支払っている。
また、ソ連時代にモノカルチャー計画経済による綿花の栽培を割り当てられたのだが、それは西方のアラル海の水を使っての灌漑農法だったこともあり、アラル海はほとんど干上がってしまい、かつ、綿花の作付け地も土壌の塩害に見舞われたのだが、これは20世紀最大の環境問題の一つとも言われている。
なお、現在も綿花栽培に作付け地の多くを割いているため、食料自給率は半分に届いていないという。
ウズベキスタンができるまで
1865年にロシア帝国が中央アジア南部ではコーカンド・ハン国のタシケントを攻略してトルキスタン総督府を置き、中央アジア北部ではロシア領内にあるオムスクにステップ総督府を置いた。
なお、トルキスタン総督府管轄の現在のウズベキスタンの場所にはフェルガナ州、シルダリア州、サマルカンド州、ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国などが存在していた。
その後、ソ連が現在の中央アジア5ヵ国の原型となる社会主義共和国を成立させ、2度にわたる国境線の変更を経て、1924年の民族・国境境界画定によって現在の国境が画定されたのであるが、ウズベク共和国には恣意的な国境線が引かれたようである。
しかし、その結果として、ウズベク人が多く住むウズベク共和国にはサマルカンド、シャフリサブス、ブハラ、ヒヴァといった中央アジアにおける代表的なオアシスの都が一つの国の中においしいどころ取りのように含まれることとなった。
したがって、現在のウズベキスタンはウズベク3ハン国を含み、かつウズベク人が人口の8割を占めるものの、地理的な一体感はさほどないように思われるのだが、かつてのティムール帝国の栄光が色濃く残っている地域という面においては一体感がある。
マルクス唯物史観を抱く社会主義国であるソ連の価値観ではティムール帝国やイスラム教は卑下すべき存在であり、これらに対して否定的な教育がなされてきたのだが、ソ連崩壊後は各地にモスクが復活し、かつ、この地に世界をとどろかす大帝国を打ち立てたティムールをウズベキスタン最大の英雄として堂々と崇めるようになって現在に至っている。
これはソ連崩壊の前と後におけるモンゴルでのチンギス・ハンの扱いと同じであるといえる。
なお、宗教に抑圧的な立場を取るソ連時代には飲酒や豚肉食が行われていたそうだが、その影響もあってなのか、旅をしながらイスラム戒律の度合いはソフトなように見受けられた。
なお、かつてのブハラ・ハン国は途中からブハラ・アミール国に改称するのだが、モンゴルにおける君主が「ハン」、イスラム世界における首長・司令官・総督の意を「アミール」と呼ぶようで、ブハラ・ハン国のハンであったシャー・ムラードがハンを名乗るのを止めてアミールを名乗るようになったようである。
なお、amīr(=アミール)はアラブ語で、アラブ首長国連邦のUnited Arab Emirates(=エミレーツ)も同意だが、エミレーツは英語の表記である。
しかし、テュルク系・ペルシャ系・モンゴル系の民族が覇を争ってきた中央アジア地域を最後に征服したのは長らく「タタールのくびき」に苦しめられてきたルーシ人で、ソ連崩壊後も中央アジア各国は「ルーシ(=ロシア)のくびき」とでもいうべきものから逃れられていないわけである。
テュルクについて
トルコ系=テュルク系民族が居住する中央アジアの地域をトルキスタンと呼ぶが、トルキスタンは中央アジア5ヵ国から成る西トルキスタン=ロシア領(旧帝政ロシア領)トルキスタンと中国の新疆ウイグル自治区から成る東トルキスタン=ウイグルスタンから構成される。
トルキスタンを中央アジアという言葉に言い換えたのはソ連だが、これは汎テュルク主義運動が起きるのを防ぐためだったようである。
テュルク系民族とはテュルク諸語を用いる民族で、主にトルコ人とトルキスタン人から成っているが、テュルク系王朝としてティムール帝国やオスマン帝国やマムルーク朝やムガール帝国が存在していたことから、過去の征服範囲はロシア、中東、東欧、インド、中国、アフリカなどとてつもなく広範囲に及んでいる。
なお、ウズベキスタン中部を中心とするオアシス地域は古来よりマー・ワラー・アンナフルと呼ばれてきた地域でペルシャ系のソグド人が住み、ゾロアスター教やマニ教や仏教などを信仰していたのだが、8世紀頃にアラブ軍が侵攻してイスラム化し、さらに時代が進むにつれ中央アジア地域全体のテュルク化が進んでいった。
なお、アレクサンドロス大王が侵攻したマー・ワラー・アンナフル南部のサマルカンド周辺はソグディアナと呼ばれてきたが、サマルカンドやブハラ周辺では今でもタジク語を用いる人がいるそうである。
ソグディアナの人々は紀元前よりインド・ヨーロッパ語族のペルシア語系のソグド語を用いていたのだが、現在の中央アジアで使われる言語のなかでタジキスタン人が用いるタジク語だけはペルシャ語系の言葉であり、そのために今でもかつてのソグディアナの地域ではタジク語が用いられているようである。
しかし、タジク語での公教育は禁じられ、かつ、公の場では使用されないため、タジク語は家庭や地域でのみ用いられており、タジク語話者のほとんどはウズベク語も話すことができるようである。
また、そもそもはカザフスタン西部にいた遊牧集団がキプチャク・ハン国の君主ウズベク・ハンの名にちなんでウズベクと呼ばれていたようだが、遊牧ウズベクは現在のウズベキスタン領内に進出してティムール帝国を崩壊に導き、ウズベク3ハン国を打ち立てた存在でもあり、また、ソグド人らが住んでいた現在のウズベキスタン地域全体のテュルク化を推し進めていった存在でもあるようである。
民族という概念には外見や遺伝子的な要素もあるが、それよりも同じ言語を話すという要素はもっと重要である。
そういう意味においては現在のウズベキスタン地域におけるウズベク人という民族の形成は地域のテュルク化によって進んでいったといえるのだろうと思う。
日本語と日本との関わり
サマルカンドで日本語を勉強している若者たちに出会ったが、サマルカンドでウズベキスタン人の先生から習っているのにとても上手な日本語を使っていてビックリした。
テュルク語族・モンゴル語族・ツングース語族(東シベリアや満州)・朝鮮語・日本語は広義のアルタイ諸語の言語とみなす説もあり、母音調和や語順などに共通点があるとされるが、実際に韓国人やトルコ料理屋さんやモンゴル出身力士が話す日本語はインド・ヨーロッパ語族の欧米人やシナ・チベット語族を母語とする中国人が話す日本語よりもずっと聞き取りやすい気がする。
まあ、インドカレー屋さんが話す日本語は早口で巻き舌だけど聞き取りやすいので、インド人の日本語も聞き取りやすいのだが…。
なお、アルタイ地域とはロシア・モンゴル・中国・カザフスタンの4ヵ国の国境付近でアルタイ山脈を抱く辺鄙な地域である。
日本に住むウズベキスタン人は2000年には200人以下だったが、法務省によると2018年12月で3,951人おり、中でも東京都には2,000人以上いるそうで、その多くは留学生となっている。
逆に外務省によると、ウズベキスタンに住む日本人は2017年10月現在でわずか132人しかいないようである。
ウズベキスタンは行ってみると結構いい国で、物価もとても安いし、住みやすい国であるようにも思ったのでもう少しいるかと思ったが甘かった…。
また、2018年における日本とウズベキスタン貿易についてだが、輸出は、一般機械・輸送用機器・電気機器などで580.9億円なのに対し、輸入は非鉄金属・綿糸・綿花等でわずか5.9億円と輸出の100分の1に過ぎず、恐ろしく不均衡で、また、両国の貿易額もかなり小さい。
ウズベキスタンが海外に輸出している製品は石油・天然ガスやウラン・金などの鉱物資源や綿などであるが、主に地理的な要因から、日本が購入しようと思う資源・製品・作物は希少な非鉄金属程度しかないということなのだろうと思う。
政治経済について
イスラム・カリモフ大統領が1991年9月1日から2016年9月2日に亡くなるまで25年間に渡って独裁的な地位に君臨してきた。
親日家ではあるものの、情報統制や反体制派およびジャーナリストへの武力鎮圧などを行っていて、長期独裁政権ゆえの腐敗も激しく、まさしく独裁者だったのであるが、後任には大統領選挙に当選したミルジヨエフ氏が就任した。
ミルジヨエフ氏はカリモフ氏という強いカリスマ性を持つ独裁者の後任ではあるものの、汚職の取り締まりや反体制派やジャーナリストの釈放などといった人権の改善に乗り出し、さらに経済面において開放の方向に大きく舵を切ったようである。
そのなかで特に大きな施策は二重為替の廃止を断行したことである。
そもそも、2003年10月に建前上は為替の自由化されていたのだが、外貨交換規制等があって事実上は建前とヤミの二重為替が残っていた。
これまでは自由な資金移動をできなくても独自の指針で投資を行うロシアや中国や韓国といった特殊な国以外の自由貿易圏の国々からの投資は行われてこなかったのだが、2017年9月に為替規制の自由化を断行したことで外国からの投資を呼ぶ方向に舵を切った。
その代償として通貨のスムが半分程度に切り下がり、ドルベースの名目GDPは半分となったため、外国のモノを買うのにそれまでの倍のお金が必要となったのだが、国の長期的な経済発展のために必要な政策転換であったといえるし、そこまでのハードランディングとはならなかったともいえる。
ついでに言えば、この影響によって、現在のウズベキスタンの物価は外国人にとって恐ろしく安く感じてしまうという状況を生んでいる。
また、ミルジヨエフ大統領は観光を強化する路線に方針を大転換したようで、日本など一部の国々に対してビザの免除等を進め、同時に外国人が旅行をする環境が猛スピードで整えられていっている。
もちろん外貨を獲得するという目的でそういう政策を進めることにしたわけだろうが、「これほどの文化財を有している、かつ、お金に困っているのにどうして今までそうしてこなかったの?」ととても不思議な気持ちになる。
なお、2010年の時点ではあるものの、ウズベキスタンでは国民の44%が1日2ドル以下の所得で生活をしているというデータがあるのだが、やはり農村部は貧しく、または貨幣をほとんど用いないような生活を送っている人々がたくさんいるのだろうと思われる。
ウズベキスタンが経済的に貧しく仕事にありつけない人が多いこともあって、ウズベキスタンから出稼ぎに出る労働者は多い。
出稼ぎ労働者の6割はロシア、残りの多くはカザフスタンとウクライナで働いているという。
ロシアに住むウズベク人は2015年で221.5万人で、そのうち労働者は2014年で134万人おり、かつ、ロシアからの送金はウズベキスタンのGDPの1割弱を占めているという。
2018年現在の他の中央アジア諸国との簡単な比較
以下は、2018年現在における各国の面積・人口・一人当たりの名目GDPである。
- 日本 377,915km2 12,650万人 39,304USドル
- ウズベキスタン 447,400km2 3,257万人 1,550USドル
- カザフスタン 2,724,900km2 1,840万人 9,401USドル
- トルクメニスタン 488,100km2 577万人 7,065USドル
- キルギス 199,951km2 626万人 1,293USドル
- タジキスタン 144,100km2 911万人 826USドル
カザフスタンとキルギスは日本人やモンゴル人に似たモンゴロイドが多く、他の国はテュルク系のコーカソイドが多いようで、東トルキスタンの新疆ウイグル自治区のウイグル人もコーカソイドが多いようである。
ウズベキスタンも資源を算出するのだが、カザフスタンとトルクメニスタンはそれ以上に豊富な資源を誇る国なので所得が高く、逆に資源国ではないキルギスとタジキスタンはかなり貧しいことがわかる。
ウズベキスタンは先述の通り、二重為替の解消によって約半分に通貨価値が切り下がったためドル建てでの所得がかなり低くなっている。
カザフスタンはカザフステップという寒冷な草原、トルクメニスタンはカラクム砂漠、タジキスタンはパミール高原、キルギスは天山山脈が国土の多くを占め、それらと比べるとウズベキスタンは国土の東側が肥沃なので人口が多いのだろうと思う。
中央アジア諸国の政治
旧ソ連で民主主義が定着しなかったためか、中央アジアには独裁に近い政治を行っている国が多い。
トルクメニスタンは北朝鮮級の個人崇拝を推し進めたニヤゾフ大統領の死後、2006年にベルディムハメドフ氏が大統領が就任していて、天然ガスなどの資源国なので経済的に豊かではあるものの、極端に人権を制限しており、豊かな北朝鮮ともいえるような独裁国家なのだが、近年は天然ガス価格の下落のため、無料だった公共料金を有料化するなど、経済的にも苦境に立っているという。
カザフスタンはナザルバエフ大統領が2019年3月に急に辞任したのだが、今後も影響力は保持するようである。
カザフスタンは1997年にオアシス都市のアルマトイから極寒のアスタナに遷都したのだが、アスタナは2019年にヌルスルタンという名前に改称された。
これはナザルバエフ氏のヌルスルタン・アビシュリ・ナザルバエフという名前から取った名前であり、ここでも個人崇拝の度合いを強めているようである。
なお、トルクメニスタンのアシガバードもカザフスタンのヌルスルタンも異形の人工都市なので個人的にはとても興味がある。
タジキスタンは1994年からラフモン大統領が君臨している独裁国家である。
キルギスのみが2005年に独裁者のアカエフ氏を、2010年にバキエフ氏を追放して大統領を象徴化し、気を吐いて議院内閣制民主主義国家として機能している。
しかし、キルギスは経済的にかなり貧しく、また、女性を誘拐して無理やり結婚する「誘拐婚」という世にも恐ろしい風習が、ごく一部ではあろうがいまだに残っているともいう。
なお、旧ソ連ではベラルーシとアゼルバイジャンも独裁国家であり、アゼルバイジャンはテュルク系の国でもある。
各訪問地の感想
各訪問地で感じたことを大雑把に述べておく。
タシケント
ヒヴァよりウルゲンチに車で移動して、ウルゲンチからタシケントまで飛行機で移動したが、タシケント空港到着後に飛行機のタラップから降りてバスに乗り、15分ぐらいかけて飛行場を1周してやっと到着ロビーに着いた。
さらにそこから荷物が出てくるまで40分以上かかった。
市の中心街は重厚で、建物がモニュメントのように大きく、道路の幅も広く、東欧あたりの街を歩いているような気になることもあった。
観光する場所はほとんどないが、逆に市民の暮らしを見て回れる楽しさがある。
サマルカンド
1220年にチンギス・ハンに徹底的に破壊されたが、破壊されたかつての市街はアフラシャブの丘に遺跡として残っていて、現在の市街はティムール帝国の都として隣接する場所に発展したものである。
市街全体は広いが、観光エリアは徒歩で移動できるほどに凝縮している。
特にレギスタン広場はウズベキスタン観光のハイライトといえる。
圧倒的に壮観な寺院群を一筆書き上に徒歩で見て回れるため、急いで回ればまる1日で見て回ることができるが、それだと観光名所めぐりだけになってしまうといえなくもなく、かといって、サマルカンドは車社会かつ、集積的な商業地もほとんどないため、街歩きをゆっくりと楽しめる風情があるというわけでもない。
それでもこれだけすばらしい遺産を1日だけ見て終わらすのはもったいないので、個人的にはまる2日以上取ってゆっくりと何度も見て過ごしたほうが良いのではないかと思う。
また、サマルカンドではかなり多くの現地の人から話しかけられたり、一緒に写真に入ってくれないかと言われたりしたのだが、あまり急いでいてはそういった交流を楽しむこともろくにできなかっただろうなと思ったからというのもその理由としてある。
ブハラ
ブハラとヒヴァは徒歩移動だけで全て事足りる。
この2都市はおそらくは新市街に街の機能がシフトしたことによってきちんと保存することができた街なのだが、逆を言えばそのために観光用のテーマパークのような街になっているともいえる。
したがって、人々の暮らしぶりを見るという観点で街を見ることができず、タイムスリップしたかのようにステキではあるが、どこか非現実的にすら感じる。
ブハラ旧市街ではどこもかしこもホテルを建てまくっていて、西欧人観光客が好みそうな観光街をそそくさと整えていっているようにうかがえる。
そういった意味では猛烈に俗化が進んで行っているともいえる。
ヒヴァ
2019年秋時点ではブハラとヒヴァ間のアクセスが悪く、車をチャーターし、5時間以上かけてキジル・クム砂漠を横断してヒヴァまで移動したが、もうすぐ鉄道の移動が可能になるようである。
ブハラから出てしばらくはかなり凹凸のある悪路を進むので不安になったが、キジル・クム砂漠に入ると逆にきちんと整備されたハイウェイに変わった。
砂漠の変化のない道なりをひたすら走り抜いてウルゲンチを通過してヒヴァに至る。
ヒヴァも街ごと観光開発中だが、イチャンカラという城壁に囲まれているため、タイムスリップおよびテーマパークの度合いはブハラよりもさらに上である。
しかし、開発の度合いはブハラほどではないため、ブハラほどまでは俗化していないが、これから猛烈に変化していきそうな予感がする。
【おまけ】ソウルでの出来事
ソウルではまだ行っていない江南エリアだけで2日間を過ごしたが、仁川空港から江南のCOEXまでエアポートバスで行き、帰りもCOEXのターミナルでチェックインした際に飛行機に預ける手荷物を預けてしまってから仁川空港に向かうことができてとても便利だった。
なお、エアポートバスは座席も広くて快適だがトイレはない。
1時間半ほど乗りっぱなしになるので要注意である。
ちなみに、俺はウズベキスタンで下痢になっていたこともあって、帰りの満員のエアポートバスの中で人生最大級の便意を抱いてしまい、人生有数の危機が訪れたのだが、ターミナル2で降りなくてはならないところをターミナル1で降りてトイレにピットインしてなんとか事なきを得た。
なお、ターミナル1からターミナル2への移動に関しては無料バスが出ていた。
ターミナル1からターミナル2までの移動時間は何故か15分ほどもあり、仮にターミナル1で降りてなかったらバス内で漏らしていた確率は100%であった…。
我が家では旅行の予約を半年ぐらい前にはしており、その時は輸出管理によって日韓関係が悪化する前で、今回ソウルにトランジットで2日間滞在することに対してかなり気が重かったのだが、韓国の人は実際に接するととても親切なことがわかっていたのと、今回もそうだろうなと予想したので出かけた。
そして、実際に人々はとても親切だった。
韓国嫌いの俺が言うのだから間違いはない。
その他雑感
街について
乾燥地帯で木の文明ではなくレンガと土壁の文明だからか建物はとにかく立派である。
タシケントとサマルカンドはソ連に属していたためか、車社会かつ、車線が多く、都市計画がしっかりしている。
信号は少ないが、横断歩道が各所にあり、歩行者優先となっている。
車は後続車からぶつかられないかと心配になるほどに急にスピードを落として横断歩道の前できちんと止まってくれる。
走っている車のほとんどがシボレーであるが、韓国GMが出資して現地で生産しているシボレーのようである。
それにしても二重為替の撤廃によってドルベースの一人当たりの名目GDPが1,550USドルに半減したとはいえ、3,104USドルのフィリピンや、2,504USドルのベトナムやよりもずっと所得が低いはずなのにどうやって車を購入しているのか、どうして都会が車社会であることができるのかという疑問はかなり強く残った。
もしかしたら観光地に関して徹底的に掃除しているのかもしれないが、街に落ちているゴミはかなり少ない。
一人当たりのGDPと民度はほぼ一致するとベトナム中部の項で強調したのだが、ウズベキスタンの民度は一人当たりのGDPと全く比例せず、所得が低くてもきちんと秩序が保たれていたように思う。
タバコはフリーのようで、街でも店でも吸っている人がいるが、空気が乾燥している国のタバコは湿気の多い国ほどには不快に感じないし、道端の吸い殻も少なかったように思った。
街の緑地にはかなり多くのスプリンクラーが設置されており、水を撒いて緑地帯の維持をしているようである。
フェルガナ地方にはテロなどが起きる危険な地域もあるようだが、観光エリア内での治安の良さは世界トップクラスであるという。
実際に街中にはツーリストポリスがたくさんいて極めて治安が良いように感じた。
また、街で見かけるモノから何からここまで日本の影響が少ない国は久々に見た気がするのだが、これはカリモフ政権の経済運営による影響が大きかったように思えるため、これからは日本のプレゼンスも少しは増していくのではなかろうかと思った。
人について
ウズベキスタン人は人懐っこくてとても親切である。
とはいえ、ソ連の影響なのか、観光地のチケットオフィスだとか両替所といった場所の事務員の態度は悪い。
また、一般的には女性よりも男性のほうが断然親切なように感じた。
ウズベキスタンには何故かメガネをかけている人がほぼいないのだが、視力が良いのか、メガネをかけたがらないのか全く謎である。
中高年女性には前歯が金歯の女性がとても多いのだが、どうやらこれはステータスシンボルでもあるようである。
若い女性はスリムで綺麗な人が多いのだが、中高年女性は太った人が多いうえ、何らかの要因があるのか膝が悪いように見える女性がとても多い。
男子学生は上はきれいな白いシャツ、下は黒いズボンを履いており、日本の学生と似た服装をしている。
初等教育が4年間、前期中等教育が5年間で、後期中等教育として職業カレッジ3年間かアカデミック・リセ3年間に通うようである。
ソ連時代の影響もあり、識字率は99%を超えているようである。
観光事情について
ビザの関係かと思われるが、ありがたいことに中国人旅行者は全くいない。
直行便はソウルから多く飛んでいるが、韓国人も日本人よりは多くない。
観光客のほとんどは白人で、日本人観光客もツアー・個人ともにそこそこ多い。
タクシーは白タクで間違いなく現地の人よりもボラれているものと思われるが、それでも日本とは比べものにならないぐらい安く、運賃も100円とかその程度なので、余計なストレスを抱えたくなければちょい値切りぐらいにしとくのが良いのかなと思った。
2016年にミルジヨエフ大統領が就任するとともに観光の振興に努めるようになったのだが、2017年に約270万人だった観光客は2018年に540万人に倍増しているようである。
しかしながら、観光に適した季節が限定されるとはいえ、ウズベキスタンの文化遺産等が有しているポテンシャルを考えるとこれでも少なすぎるとしか思えず、これから爆増していくのではないかという所感を持った。
少なくとも日本人に人気のあるシンガポール・マレーシア・フィンランドなどといった国よりはずっと多くの文化遺産があるのではないかと思う。
また、タシケント→サマルカンド→ブハラ→ヒヴァという鉄板のゴールデンルートがあるので旅人が行き先選定に迷う心配がなく、そういう意味では一度は行っといたほうが良い国としてアピールしやすいのではなかろうかと思った。
食について
決して緑豊かな地域というわけではないのだが、ウズベキスタンでは豊富にサラダを食す習慣があることに驚いた。
また、海から隔絶しているため、淡水魚以外の魚を期待できず、また、ムスリム国のため、食肉としては羊肉と牛肉が主に食されるが、牛肉はジューシーではないものの、羊肉はジューシーなように感じた。
羊肉を用いた料理には羊肉の臭みがあり、気候が乾燥しているからか大量の油を用いた料理が多いものの、辛いだとか匂いが強烈ということもなく、やさしい味付けで食べやすい料理が多いのだが、全体的に味付けがシンプルで、うまみという要素を知り尽くす東アジア人にとっては何か一工夫足りないと感じるかもしれないとは思った。
また、東アジアのように食材に恵まれた地域ではないためか、料理のレパートリーもそんなに多くはないように感じた。
主食はナンのようであるが、インドのナンというよりはむしろ乾いたバゲットに近く、大きさはかなり巨大で、かつ、見た目はとても美味しそうに見えるのだが、長期間にわたって保存しながら食べるようである。
焼いてからの時間が経つことで美味しさが損なわれるとまでは言わないが、焼きたての美味しいバゲットやパンの味を知っている日本人にとってはさほど魅力的には感じられるものではないのではないかという感想を持った。
なお、長期保存が可能なのは乾燥した気候だからというのもあるが、実は塩分がかなり濃くなっていて、そのために保存が利くものと思われる。
さきに料理の味付けがやさしいと述べたが、これは塩分を料理からではなくナンから摂取しているためではないかとすら思った。
パン系のナンの他に、米を用いたプロフや麺のラグマンや餃子も食されるのだが、これらを食べる際にもダブル炭水化物でナンが食べられているようである。
プロフはチャーハンのように油でパラっと炒めるというようなものではなく、むしろ、油の中に米が浸かっているというようなシロモノなのだが、むしろこちらではそれが贅沢なこととされているようである。
ショッピングセンターのような施設も無くはないのだが、ウズベキスタン人はバザールで主な買い物をしているのだろうと見ていて思った。
ウズベキスタン人の家庭では保存食の作り置きをする習慣があるため、一度に大量の果物や野菜や穀類を仕入れることが多いそうだが、バザールで大量買いをすると値引きが利くそうである。
レストランにおいて一皿の量が多い国と少ない国があるが、ウズベキスタンはタイと同じく、一皿の量が少ない部類の国である。
逆を言えば、単価は安いし、一皿の量が少ないことで多くの種類の料理を食べることができたのでありがたくもあった。
それと、おそらくではあるがウズベキスタンにはあまり外食をする習慣がないように感じた。
観光地において観光客向けのレストランは見かけたが、タシケントなどでも食堂の類をあまり見かけなかった。
とはいえ、お茶を提供する座敷風の喫茶店であるチャイハナはところどころに見かけるのだが、チャイハナでは食事を取ることができる。
また、ウズベキスタンでは緑茶が広く飲まれている。
衛生と注意点
旅の後半に相当な下痢をしたので、衛生面にはおそらくかなり難があるのではないかと感じた。
脂で下痢をする人がいると聞くが、日本ではしないような下痢が連日続いたので、おそらくは油などで腹を壊したというよりは感染性の下痢だったのではないかと思う。
水が不衛生なのか、野菜が不衛生なのかはわからないが、生ものを避けて火を通した食べ物を食べることを勧めたいと思う。
ウズベキスタンはサラダが多種類あって、しかも美味しいのだが、仮に俺が次に行くとしたらロシアンルーレット状態になるのが嫌なので食べるのを避ける。
ちなみにウズベキスタンの野菜は有機野菜なのだというが、有機肥料の有機成分ゆえに腹を壊したのかもしれないなとも邪推した。
気候について
夏はかなり暑く、冬はかなり寒いので、5月・6月・9月・10月以外の時期に行くのは避けたほうが良いのではないかと思うが、俺が旅先を選定する上での最重要項目が「ベストシーズンなのか」という項目だからそう言っているだけであるともいえる。
9月は日なたはそれなりに暑かったものの、日陰は空気が乾燥しているからかこの上なく気持ち良かった。
費用について
他の人と一緒に行くツアーは苦手なので、基本的には自己手配をしているのだが、足となる車が必要な途上国を旅行する場合には毎度ファイブスタークラブに手配をしてもらっており、飛行場→ホテル、ホテル→駅、駅→ホテル、ホテル→ホテル、ホテル→飛行場等々、ホテルに荷物を置くまでと駅および空港構内以外でほとんどスーツケースに手を触れない大名旅行でも、飛行機と宿含めて二人で33万円程度の支払いだった。
現地での食事代・入場料・タクシー代・お土産代は全くケチらずにガンガン使い、手配旅行に挟み込むかたちでトランジットで2日間滞在したソウルでの宿代などを合わせても7万円程度しか使わなかったので、全費用としては二人で40万円程度となったが、10日間の旅行としては安く行ける旅行先だと思う。
サマルカンドのレギスタン広場