GOODDAYS

世の中をかいくぐって逆張りの人生を歩む俺の意見

年々ビビりになってスポーツ観戦すら苦手に…

大坂なおみ選手は実質アメリカ人なわけで、急に日本全体で感情移入するのは変だろ?」と思ういつものへそ曲がりな俺が心の中にいなくもなかったが、全豪オープンテニス女子の決勝戦をテレビで観て強く応援してしまっていたという事実は否定しようがなかった。

しかし、大坂なおみ選手が2セット目を落としてから「これは崩れるパターンだ…」と思って観ていられなくなって一旦テレビを消した。

第3セットの3ゲームで大坂選手がブレイクしたのをネット上で確認してから再びテレビをつけた。

見ていられなくなると見られなくなるのはスポーツだけではなく、小説・映画・ドラマでもそうだ。

 

小説を読んだり、映画やドラマを観たりすると感情移入しすぎて涙はちょちょぎれるわ、辛い気持ちになってしまうわで、あまりに心が揺り動くものだから体力を消耗する。

もちろん小説も映画もドラマも見るのだが、正直、苦手意識を持ちながらこれらを見ている。

何も起きないストーリー展開の作品を見たいぐらいだが、当然ながら、小説・映画・ドラマで何も起きない作品というのは滅多にない。

ノンフィクションを扱うドキュメンタリー映画や、歴史モノや伝記モノのように結末がわかっているドラマは楽しみやすいのだが、どうストーリーが転ぶかわからない作品や死人が出る作品を観るのは苦手だ。

残酷なシーンだとか、痛そうなシーンだとか、隠し事がバレるシーンを観ると本当に疲れてしまい、一旦見るのを止めてしまう。

 

つまり、俺がフィクション以外の文章ばかりを読みがちなのはフィクションから逃げているからなのである。

よく、うちのご主人から「作り話なのに…」とフィクションに対する感受性が強すぎることを感心される。

また、現実に起きた目を覆いたくなるような事件の報道や遠く離れた国での人権弾圧について書かれた文章を読んでも同じように疲れる。

人生経験を40年以上積んでも鋭敏すぎる感覚が弱まることがない。

本当に困ったものである。

 

スポーツの話に戻るが、スポーツというのは確率でいえば半分近くの確率で応援しているほうが負ける。

また、複数のプレイヤーが争う場合はさらに勝つ確率は落ちる。

「負けるかもしれないのに見るというのがどうも苦手だから、いっそのこと誰かを強く応援している時には見たくない」という心構えでいたら楽しむという観点において損をするのかもしれないけど、俺は誰かを熱烈に応援している場合にスポーツ観戦するのが苦手である。

負けた時はもちろんだが、もしかしたら勝った時ですらそうかもしれない。

マイナス方向にせよ、プラス方向にせよ、勝負に左右されて心が感情が大きく揺れ動いて平常心でなくなるのが嫌なのである。

端的に言うと、「美しいものに感動するのは好きだが、勝負を見て感動するのは苦手」「感動をありがとう!と思えずすまん」ということになる。

こんな身も蓋もないことを言ってしまっては人に感動を与えるために日々精進しているスポーツ選手に対して失礼極まりないのだが、俺のように虚無的な考えを抱く人間は少数派中の少数派だと思うし、そんな俺でも「えげつない」プレーや美技を見た時には美しいものに遭遇した時と同種の感動を得ることができる。

また、「誰が勝ってもいいや」と思っている時や、「まあ、根性あるほうや運の良いほうが勝つわな」と思っている時は平常心で見ることができるし、そういう心構えで臨むスポーツ観戦に苦手意識を持つことはない。

 

「あんた格闘技の試合映像を観まくってるじゃん?どちらかを応援していること多いっしょ?」と言われたら実際にそうなので返す言葉がないのだが、格闘技は球技よりも確実性が高いというか番狂わせが少ないし、競技経験があるだけに競技者の身になって考えることができるため、応援していなかった側が勝っても素直に称えようと思う気持ちが沸き起こりやすい。

また、技術そのものやプレーの内容そのものをしっかりと見ることができるため、プロセスやディテールや起きた偶然を楽しむことができる。

 

それにしても、俺ほどのビビりがどうしてキックボクシングをやっていたのかということだが、大学生の時は試合をするとわかってやっていたので嫌とか言っていられずに試合をしていた。

それに対して、25歳から30歳の5年間と32歳頃の1年間にジム通いをしていた時は全く試合をしていない。

自分の練習以外にプロ選手のスパーリングパートナーをしたり、女性向けクラスの講師の仕事をしたり、セレブ向けの個人レッスンの仕事をしていたのだが、試合をしたいとは全く思わなかった。

仮に29歳の自分が22歳の時の自分と試合をしたら何もさせずに圧勝するだろうと思っていたが、ただのテクニックオタクとして続けていただけであり、大物のプロ選手とスパーリングをして実力が通用することを自己確認するだけで十分だった。

周囲からは試合をしないなんてもったいないと不思議がられていたが、試合をするとなると必ず勝負という側面が出てくるわけで、それによって心の平静を保った日々を送れなくなくなるのがどうしても嫌だった。

この頃からそうだったのだが、今はさらにその傾向に拍車がかかっている。

 

昔はいろんな刺激を求めていたのに、年を重ねるごとにそれがなくなり、逆に平常心を崩さず静けさに満ちた日々を送りたいという願望が強くなるばかりである。

もちろん、受動的に降りかかってきた出来事に対しては最善を尽くして対処しなくてはならないが、能動的に静けさを乱すようなことはしたくないと思うようになったのである。

悪い言い方をすれば、挑戦する心を失っているとすらいえるのかもしれない。

また、生まれた以上、全員死んでしまうわけで、他人や自分の死から逃れられないという意味では大波乱が起きない人生というのはあり得ないのだが、それが人生の辛いところであり、その辛さに対応するために宗教があると理解しているのだが、残念なことに俺は筋金入りの無神論者である。

 

ここまであれこれ述べたが、勝負を見ることだとか白黒ハッキリさせることを見るのが苦手と言い訳してみたところで、スポーツ観戦すら苦手と言い出すとは、もはや末期的なビビりだわな…。