前回、日本の終身雇用制度は正社員が自分の職種を自分で選べないこと、転職をしたら収入が大幅ダウンして人生設計を大きく狂わされるために何があっても辞めずに働くしかないことを、「従属者」と呼んだ。
自分で選んだ職種や仕事ではなくとも大きなやりがいを持ってグローバルに活躍している人はたくさんいる。
彼らのことは従属者と呼ぶ必要はないと思うが、もし呼ぶならば楽しんでいる従属者とでも呼ぶべきところなのだろうと思う。
今回は、何故に俺がこのように考えるのか、その根幹となる考え方について述べたい。
京セラフィロソフィ
2018年4月12日に「俺の中で稲盛氏の哲学には、このように肯定できる要素と、やりがい搾取なのではないかと思う要素の両方があり、後者についても述べたいことはある」と予告していたのにも関わらず、ずっと述べる機会を延ばしてきたのだが、今回はこのテーマについて述べたい。
なお、今回のような俺のブログにおける人生論に関わる重めの文章はいくつもアップ待ちにしてあって、1年以上寝かせて陳腐化してなかったらアップするようにしているのだが、これも1年以上前に書いてあったもののアップとなる。
かなり長くなるけどご勘弁を…。
京セラとKDDIの創業者である稲盛和夫氏は稀代の経営者だが、まさかのまさかで、稲盛氏はフィロソフィによって従業員の意識を変えて日本航空の経営を立て直した。
行き詰まった企業には、どうやったって再生不可能な企業と意識さえ変えれば再生する企業があって、日本航空は圧倒的な後者だから再生したのだが、稲盛氏のカリスマ的なリーダーシップなくしては簡単に成し得なかった再生劇だったと思う。
また、稲盛氏の「アメーバ経営」「稲盛会計学」といった経営手法は人類の財産といってもよいものであろうと思う。
前回に「今の世代のサラリーマン社長や団塊世代はその前の世代よりも劣化しているのではないか」というようなことを述べたが、その前の世代の日本人に凄みを感じるのは稲盛氏のような偉人がいらっしゃるからに他ならない。
なお、前回にも述べたが、この見立ては俺の感覚に過ぎず、何の検証もしていない。
稲盛氏の著書に「生き方」という本がある。
稲盛氏は仏門に入っていらっしゃるのだが、「人生の目的は魂を磨くこと」「働く喜びに代わる喜びはこの世にはない」といった前向きなことを終始にわたってこの著書で述べておられている。
確かに、稲盛氏のおっしゃるとおり、仕事の中から生きがいを得るという考え方をする人もいるとは思う。
しかし、「仕事をすることが人生の目的である人」「仕事より楽しいことはない人」(=以下、「仕事命な人」)以外にとって、その種の考え方は資本家・企業家・使用者・成功者によってなされる洗脳的な押しつけではないだろうかとも俺には思える。
実は、かくいう俺も若い時に稲盛氏の著書を読んだときに深く感銘を受けたのだが、後になって考え直して、このような考え方に染まってしまうから人生がよくわからなくなるのだと思うようになった。
「仕事命な人」である創業者が自分自身に言い聞かせるのならともかく、「仕事に打ち込むことで魂は磨かれる」「仕事に変わる喜びはこの世にない」というようなことを勤め人に言ってしまうとするならば、会社は労働の対価として金銭以外に魂を磨く場や喜びを提供しているという論理になる。
昨今になってやっと「やりがい搾取」という言葉が一般的に使われるようになったが、それに近い考え方だと思う。
労働は労使間における神聖な交換行為以外の何物でもないと考える俺にとって稲盛氏のような考え方にはどうしても違和感を禁じ得ないのである。
確かに、このような考え方に影響されることで人は仕事を生きがいにしようと努力するだろうし、仕事に楽しさを見出そうとするだろうし、一生懸命に働くようになるだろうし、毎日が忙しかったとしても前向きにとらえることができるようになるだろう。
辛いことがあっても「魂を磨くため」と思えるだろう。
しかし、俺はこういった考え方は「仕事命な人」には当てはまったとしても、そうではない大多数の人にとっては哲学的な搾取といえるのではないかと思うのである。
仏教の教えまで持ち出してこのように説法ぶるのはある意味危険であるとすら思うし、そもそも政教分離が当然であるビジネスの場において仏教の教えを説くことにも違和感を抱く。
なお、時代が違うとはいえ、仕事ばかりでいつも帰宅が遅い稲盛氏と家庭を奥様が内助の功で支えたという美談が別の著書に述べられているのだが、偉人・稲盛氏の功績はそういった面にも支えられていたものの、稲盛氏を支えた奥様は稲盛氏の哲学どおりの人生を送ることができていないわけである。
真に受けると危険な3つのロジック
生きがいを提供しているはずの会社は、リストラしたり、異動・転勤・出向を命じたり、定年退職でお払い箱にしたりと、企業の論理でいとも簡単に人の人生の梯子を外すわけで、個人的にはこういった面にも大きな矛盾を感じている。
それと、仕事は他律的な行為であるときちんと割り切ることができればこういう考えに惑わされることはないのだが、仕事と生き方に関するロジックで、真に受けてしまうと危険だと俺が思っているロジックが3つあると思うので述べておく。
1つ目は、仕事で成功した人と同じようにやれば成功できるはずであるというロジックである。
仕事で成功する才能も情熱も運も持たない人が、才能と情熱と運を持つ人に「自分と同じ方法でやれば成功できる」と言われ、その考え方に巻き込まれてしまうのは言うまでもなく危険である。
常人が野球選手として成功することが無理難題であることについては誰もが理解できることなのに、仕事になると、向き不向きや才能の要素を過小評価する人がいるから不思議である。
成功したスポーツ選手に子供の前で講演させようとする人の気持ちを俺は理解できないのだが、大人になってまでこのような考え方に巻き込まれたくないと思う。
2つ目は、やりたいことに徹底的にハマってそれでご飯を食べられれば幸福だというロジックである。
特に最近は社会のIT化とからめて、真顔でこの論理を振りかざす人があまりに多いので困ったものだと個人的には思っている。
お金や仕事に結びつくことが好きな人ならばそれを続けて稼ぐことができるだろうが、全くお金にならないこと=マーケットがないことが好きな人にとってはそのロジックは全く役に立たない。
この点でこの論理は完全に破たんしている。
趣味のロリコン女装をしてご飯を食べられる中年男性はそうそういないのである。
そして、何事においても好きなことで食べられるレベルに達するには相当な才能と運と情熱が必要となる。
「プロフェッショナリズムは他律・不自由、アマチュアリズムは自律・自由」という俺の考えについては度々述べているのだが、プロであるということ=他人の期待を充足させることであり、プロフェッショナリズムを追求をすればするほど、好きなことを仕事にしているつもりであってもどうしても他律に寄っていってしまう面があるのは基本構造がそうなっているからである。
3つ目は、会社員は自由が効かないので、フリーランスとして成功できるだけの能力を身につけるよう促すロジックである。
そもそも、高度化・大資本化・世界間競争化が進行し続ける今の世の中にあってそれができれば誰も苦労して会社になどしがみつかない。
会社員がいかに守られているかを知れば知るほどそんな甘いことは簡単に口にできないように思うのだが、世の中にはこの種の成功法則を紹介する本も多すぎる。
こういったことを大真面目に言う人がいるから、若い人があれこれと悩むはめになるのだと俺は思っている。
多くの凡人にはこれらの3つのロジックに巻き込まれないよう、気をつけて生きて欲しいものである。
他律である仕事と貢献感
先ほど俺は、「仕事は他律的な行為」と述べたが、単独で存在できない弱い種であるヒトは社会的な存在でありたいと思うことを遺伝子レベルで運命づけられている。
アドラーは「貢献感」こそが幸福の源泉と述べているぐらいである。
このように他律的に生きることで良い面は数多くある。
「金銭の交換が伴うため、納税以外については、実は仕事は貢献とは呼べない」という俺の考えについてはいずれ述べるつもりだが、仕事をすることで、「他者に貢献できた、喜んでもらえた、社内および顧客から評価された、その評価として対価を受け取った」という貢献感を得られる。
社会の一員としての帰属感も得られる。
自分のやっていることが無益であることに耐えられないという思いをすることもない。
定年後に否応なく自律的な人生を歩むことになった時にやりたいことや役割がないことに苦しむ人がいるが、仕事をしている限り、その種の苦しみを味わうことを先延ばしにできる。
あまりに家庭を顧みないというようならば問題だが、人生の時間を潰す手段として仕事に依存したとしてもそれを悪く言う人はまずいない。
そして、納税をすることで国家という個人に対して唯一強制力を持つ共同体に対する貢献をすることもできるし、何より、生活をしていくための収入を得ることができる。
そもそも、社会人となってからは、起業したり、家に引きこもったりしない限り、生活をしていくための収入を得るために、誰もが他律的な会社員・派遣社員・アルバイトとしての生活からスタートせざるを得ないのだが、収入を得ると同時にここから多くの学びや刺激を得ることができる。
この学びや刺激について単に交換相手である使用者側からあれこれ意義を説かれるのは不本意極まりなく思うというのは先に述べた通りだが、人生経験が浅い頃にはこの学びや刺激は貴重である。
子供が学校で勉強するように、もしくはそれ以上に社会から多くの学びや刺激を得ることができる。
したがって、若いうちは仕事で苦労をして多くのことを得るべきだと思う。
しかし、会社員としての活動はあくまで他律的な期待を満たすための活動にすぎないので、ある程度それを満たすことができたのならば、そこから得た学びや見識を自律的な活動にも昇華させていく必要がある。
「仕事命な人」以外の人にとって、人生の目的は自律的な欲求のなかにあるからである。
自分の真の欲求を満たすために、他律的なものに振り回されずに自律的な欲求に目を向ける必要があるのである。
自律には困難が伴うが、その困難を楽しむのが人生
これは特に重要なことなのだが、他律が苦で自律が楽というようなことは一概には言えず、実は、自律的に生きることにはたくさんの困難が伴う。
考えようによっては、むしろ他律的に生きることよりも困難が伴うといえるかもしれない。
自律的な自由は、他律的な不自由よりも多くの葛藤と孤独を個に対して叩きつけるものだからである。
しかし、「仕事命な人」以外の人にとって、その困難を正面から受け止めるほかに真の欲求を満たす方法はないのである。
そして、真の欲求が何かを見出すのはとてつもなく難しいことでもある。
仕事が生きがいではなく、お金のために働いているという人に「お金があり余るほどあったら何をしたいですか?」と聞いてみて、「私はお金があり余るほどあればこれをやりたいです」ときっぱりと答えられる人は少ないように思う。
仕事は毎日朝から晩までできても、趣味のギターを毎日朝から晩まで弾いていられるというような人はそうそういないだろうし、それが絵画であれゴルフであれ映画鑑賞であれ、なかなかそういう人はいないのではないかと思う。
「正直、お金のために仕事をしている。かといって、仕事をしなくて良くなったらこれだけをやっていたいというほどのものもない」と思っている人のほうが多いのではないかと思うのである。
そして、「それで良いのだろうか。生きがいと言っていいぐらいにやりがいを持って打ち込めることが欲しい」と心底思っている人も多いのではないかと思う。
俺はそれについて、以下のように思っている。
- 生きがいと思えることが思うように定まらなくても悲観することはない。
それが思うように定まらないからこそ人生はおもしろいともいえる。
なかなか思う通りに脳が満足してくれないけど、それを目指し続けることが人生の難しくも楽しいところなのではないか。 - 自分が何をしたいのかについて問答をひたすら続けることほど贅沢な人生の過ごし方は他にないのではないか。
- 他律的な行動に逃げずに、とことん自律的な問いについて考え続けることこそが人生を我が物とすることなのではないか。
そして、自律的に生きる道を避けて、ひたすら仕事に依存して他律的に生きて、定年退職での引退後に何も残っていないというような人生は、他人の人生を歩んできたがごとき人生であり、さびしい人生なのではないかと俺は思う。
忙しくして他律的に生きることで真の欲求から目をそらし、長い人生の途中にそれを自らに問わずに生きてしまって、晩年になって初めてそのようなことに思いを抱くというのはさびしいことだと思うからである。
「生涯現役」という言葉があるが、「仕事命な人」、経済的理由でお金を稼ぐ必要がある人、生活リズムを整えるために仕事をする人、人に喜んでもらうことが真の喜びという人に関しては何も言うことはない。
しかし、辞めたら他にすることがないからというような理由で生涯現役を貫いている人は、自律的にそうすることを選んでいるつもりだったとしても、他律的に生きているといえるように思う。
経済的側面以外において、もしくは「仕事命な人」ではない人において生涯現役を礼賛する風潮は、高齢化社会によって長時間得られることになった自律的な生活を送ることが不安になった人に新たな他律の道を提示している面もあると俺は考えている。
真の意味で自分の人生を見つめることを避けている人に対し、逆にそれを生涯現役と言って褒めて他律的に過ごすことを推奨している行為であるようにも思うのである。
「仕事命な人」でない人は、仕事に人生を預けてはならず、たとえ苦しくても自律的な人生を模索することに価値があると考えたほうが良いのではないかと俺は思う。