GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

バーチャルとエアと経験値カバー

ライブだとかトークショーだとかスポーツ観戦といった生のイベントは、場の空気を味わったり、みんなで応援したい時だとかテンションを上げたい時にはもってこいである。

特に、場の空気や間が大切な落語や、スピーカーを通さないクラシックジャズの演奏などはライブで聴いたほうがずっとすばらしいということは言うまでもない。

また、ミュージカル大好き人間としては、スピーカーを使っているにせよそうでないにせよ、ミュージカルを生で観る魅力は何にも代えがたくも思う。

 

しかし、集中して話を聞くだとか、より精度を上げてプレイを見るだとか、静かな中で聴くだとかいう場合にはバーチャルな手段のほうが向いている。

バーチャルな手段の代表であるテレビは生よりも録画したものを見るに限る。

あたりまえだが、いつでも止められるし、リプレイもできるし、CMや見たくない部分を飛ばせるからである。

さすがに音楽は生で聴いたほうが良いという声は当然あるかもしれないが、プレイヤーと自分間、プレイヤーとマイク間の距離、および、現場の雑音や歓声を差し引き、息遣いまで再現する録音技術とスピーカーの機能を考慮すると、スピーカーで聴いたほうがベターなことすら多い。

相手の話すペースで視聴する講演やテレビよりも、終始自分のペースで読めて、考える際には一旦止めることができ、途中でメモも取れ、文字という最も抽象度の高い手段で処理できる読書のほうが理解度が高くなりやすい。

 

そして、バーチャル手段のすごいところはコストがほとんどゼロに近いことである。

今はライブにマネタイズする時代になっているので、バーチャルで押し通せば生活コストはぐんと抑えられる。

 

とはいえ、多くの人にとってライブよりもカネ食いなコト体験は旅行である。

旅行に関して言えば、物見遊山はバーチャルで十分な面もある。

しかし、空気感だとか匂いといった感覚は現場でないと味わえないし、コミュニケーションも現場でないとできないので、基本的には旅行はバーチャルでは不十分である。

特に匂いが脳の記憶に与える作用は大きいし、俺は嗅覚が優れているため、特にそうである。

また、マラケシュのジャマ・エル・フナ広場で得られるような極めつけの異国感も脳内で再生するのは難しい。

バンコクのパッポン通りの喧騒なども脳内で再現できなくはないが、あそこまで度を越してハチャメチャだと脳内で実際の臨場感に迫るのは不可能に近い。

見慣れない食べ物を食べるという行為も口に入れないとどうにもならないため、バーチャルでは無理なのであるが、普段食べ慣れている食べ物に関しては代替策があると思うので、これについては後で述べる。

 

バーチャルを楽しめるようになるには経験値が何よりも大切で、経験を積み重ねていけば、バーチャルで済ますうえでのハードルは下がっていく。

ライブやスタジアムの臨場感や雰囲気がわかっていれば、バーチャルで楽しむ時に想像力を駆使しての脳内加算が可能となる。

 

仮の話だが、「もしかしたら口説けるかも」と思う女性が目の前にいたとしても、この上なく手痛い社会的制裁が待っていることを考えれば、既婚者が実際に行動を起こすのは愚の骨頂である。

しかし、独身時代にできる限り多くの女性を口説いて、良い思いをしたり、辛酸を舐めたりしておけば、予想通りの経験と予想外の経験を積み重ねるうちに予想と実際の乖離差が縮まるようになっていくわけで、やがて、以前にも述べたセクシャル達観を得るに至り、想像だけで脳内完結が可能となるわけである。

そうなってしまえば、想像力を働かせて、「この女性を口説くことに成功したとしたらこんな感じでコトが運ぶのだろうとな」と、勝手かつ失礼な脳内シミュレーションをして何もせずに終わらせることができるようになる。

このように、核実験も口説きもシミュレーションで完結する域まで達すれば実験や体験自体が不要となるわけだが、今の世の中はネット上に猥褻な映像がいくらでも氾濫していることもあり、生来の達人においては、女性とろくに口を聞いた経験がなくとも、部屋から一歩も出ずとも脳内で自己完結が可能となり、面倒くさいトラブルにも一切巻き込まれずに世知辛い世の中を上手に泳ぐことができるようになるわけである。

 

また、食を知り尽くした土井善晴氏が「一汁一菜」を提案するに至ったのも美食達観を得たからであろうし、俺もこの分野での達観は俺なりには得ているつもりである。

先日触れた山崎寿人氏に至っては20代の食べ歩きの経験でインプットが終了し、その後は食いしん坊達観から次々と繰り出すアウトプットのみで豊かな食生活を送られているわけである。

最近、東京と地方の情報格差が云々とネット上にトピックが出ていることが多いが、俺は若い時に上京したので、東京での遊びもあらかたインプットしてある。

 

そして、これまで培ったシミュレーション力を生かして、ライブの良さをエアで堪能することは実に多い。

 

俺が勝手に、「エアハウス」「エアコリドー」「エア焼き鳥」「エアケバブ」などと呼んでいるのだが、これは、新丸ビルの7階の丸の内ハウスを一周したり、銀座コリドーだとか新橋の飲み屋街を往復したり彷徨ったりして、店に入らずとも雰囲気の良い店に立ち寄った気になったり、焼き鳥屋の煙を嗅ぎに嗅いで焼き鳥を食べた気になったり、ドネルケバブのクミン臭を嗅いでイスタンブールに飛んだ気になるというような、この上なくセコいバーチャル行為のことである。

また、六本木や歌舞伎町やゴールデン街の喧騒を歩くだけで、カネを払ってタバコ臭いクラブや飲み屋に入って夜遊びをせずとも夜遊びを楽しんだような気持ちになれるし、ホテルのロビーを歩くだけでもゆっくりとアフタヌーンティーを楽しんだかのようなリッチな気持ちに浸れる。

 

オシャレな店というのは、入って座ってしまえば動くことがなくなるので、いくらいい雰囲気の店に入っても座ったらそれまでというところがあるように思うのだが、逆に、オシャレな店だな~と思いながら店の外から覗く行為だけでも、店の雰囲気の7割程度は堪能することができる。

もちろん実際に食さないと味わえないのだが、雰囲気と匂いだけでもかなり優雅な気持ちになれるし、雰囲気の良い店と美味い店というのは往々にして違うことが多く、食べるのは多少汚くとも美味い店で食べれば良いのである。

雰囲気の良い店の前を通ってその気にさえなれば、あとは、別の安くて美味いもので腹を満たして満腹感を得ることでカネをかけずに結構な満足感が得られる。

とはいえ、あまりにそればかりだと虚しいからたまにはゴージャスなものを食べに行ったり、アフタヌーンティーに行ったりもするが、エアと実体験を巧みに織り交ぜることでシミュレーションの精度を高め、日々の生活の潤いを高めることができると思う。

 

ところで、雰囲気の良いレストランを通りかかって匂いだけを嗅いで、実際に食べるのは安いものでと聞くと、美女とデートしていたのにいつのまにか並の女性と入れ替えるハメになっただとか、お楽しみ行為の最中にまさかの寸止めをせざるを得なくなったと考えることができなくもないが、今の日本社会は安くて美味いもので溢れかえっているわけだし、確実に美味いものを食べることには変わらないのであって、それは寸止めということにはならないと思う。

なので、これは何も貝原益軒の「養生訓」の「接して漏らさず」の境地にまで達さずとも大丈夫な提案なのである。

 

このように、バーチャルとエアを上手く利用し、省エネ・省コストにつなげるためのシミュレーション力と精度を高めて、幸福度を上げていきたいものである。

 

ライブなどの非日常体験を脳内で自己完結させてしまうことは、人生の楽しみを毀損させることになるのではないかという意見を述べる人がもしかしたらいるかもしれないので、これについて、毎度同じようなこととなるが、俺の私見を述べておく。

幸福は、若い時は非日常体験から得るものだが、年を重ねるにつれ、日常の何気ないものからこそ得るようになっていくものだと俺は思っている。

昔の日本人が、気持ちの良い青空も、どんよりとした曇り空も、降りしきる雪も「趣がある」と感じてきたような心の持ちようや、平和で健康で家族や友人がいることや、毎日かみしめるお米が美味しいことや、目をつぶってリラックスして深呼吸する時の気持ち良さに日々感謝するというような部分にこそ幸せがあるなあと俺は強く思うようになっていっているのである。

 

ラマダン時のジャマ・エル・フナ広場の日没。祈りのアザーンが大音量で鳴り響き、この上ない異国感が漂う

 

バンコク某所。ここまで強烈だとエアでの再現は難しいか…