GOODDAYS

  世の中の歪みをかいくぐってひたすら逆張りの人生を歩む俺の意見

人生を考えるうえでの真のグローバル思考⑦ 73億分の1

 

あっち行ったりこっち行ったりで右往左往したが、「人生を考えるうえでの真のグローバル思考」というシリーズは今回で最後となる。

 

餌やりおっさんの数のバランス

野鳥に餌をあげることについて、三上修氏は著書「身近な鳥の生活図鑑」において興味深いことを述べておられる。

なお、以下は俺の意訳である。

戦後間もない頃まで鳥は石を投げて追い払うものという認識だった。

GHQの指導等で鳥類保護に教育の舵が切られ、その年代の人には「鳥を大切にする=餌をやる」と考える人が多い。

「餌をやらないで」と書いてあるところではやってはいけない。

舗装された都市では鳥が餌をとりにくくなる。

冬の餌不足の時期に餌を得られないと体温の維持ができなくなるので、餌を与えてそれを救える可能性もある。

冬限定で小規模に現状の規模であげる分にはそんなに問題にならない。

現状では問題はないが、多くの人があげると問題になる。

 

戦前と戦後で常識が変わったことに驚くが、現状でバランスが取れているということにも驚く。

街中にいる餌やりおっさんが多すぎず、少なすぎずいることは害とまではなっていないということだが、何事もバランスが大切なのだなと深く思わせる。


子育てや出生率をこれと一緒にしたら怒る方もいるかもしれないが、今の日本の少子化って、野鳥への餌やりのように絶妙なバランスじゃないのかなと思ったので挙げた。

僕は人口減を望むけれど、あまり急激に人口減が進むと上手くテーパリングさせられないわけで、何かの根拠を探して述べるわけではないのだけれども、日本においては今ぐらいの減少スピードでちょうどいいんじゃないかなと思っている。

産みたい人は産み、そうではない人は産まない…そして、その合計が今ぐらいならばちょうどいいと思うのである。

 

…と、日本においてはちょうどいいと述べたのだが、世界ではそうではないということはこれまで述べてきた通りで、結局のところ、人類全体のバランスを取ることはできず、人間圏の持続可能性には危うさを感じずにはいられないままである。 

 

グローバルって

weblio英和辞典によると、「グローバル」という言葉について以下のように記されている。

 

地球全体の、世界的な、グローバルな、全体的な、包括的な、球状の、球形の

 


「球状の」「地球全体の」とあるということは地球そのものを想像させるのだけれど、「グローバリズム」「グローバリゼーション」のように人間圏における「世界的な」という意味合いでも捉えられる言葉である。

つまり、グローバルという言葉には二重のスタンダードがあり、「地球全体の」という概念と、「世界的な」という概念の2種類の概念で捉えられるということである。

そして、特に後者の人間中心の概念でばかり捉えられることが多いのだが、これまでの回で矛盾に満ちた例を挙げてきたつもりなのだけれども、この後者の概念は「害念」とでも言いたくなるほどに矛盾に満ちている。

 

自然のルール

そもそも、自然のルールはどこまでも残酷で、とことん弱肉強食で、個々の生命体・動物に人間が言うところの慈悲の念はほとんどない。

そして、人間も自分たちが食べて生きるためには慈悲深い存在でいるわけにはいかないので、動物を捕獲するなり、飼育するなりして、その命をいただいて生きているわけである。

 

人間が哀れな改造を繰り返して「愛玩」という名の玩具にされてしまったが、愛玩犬も自然界にいれば獰猛な獣になるか、適応できずに淘汰されることとなる。

福島の原発事故の後に人間のエゴで打ち捨てた地域には元来の厳格な自然のルールが復活している。

 

偏った考え

人は犬を飼うことで、犬には情があるということを知るのだが、そのことが偏った考えを生むことにもつながっている。

NEWSWEEKのWEBサイトの記事を引用するが、平昌オリンピックの際に、アメリカ代表のガス・ケンワージー選手は87匹の犬をカナダとアメリカに連れて帰り、以下のようにインスタグラム上に綴ったという。

 

「犬食は韓国文化の一部という議論がある。個人的にこれに同意はしないが、西洋的な理念を押し付ける立場ではない」と前置きしたうえで、「それでも犬たちの扱いは完全に非人道的だ。文化は残酷な行為と犠牲の上に成り立つべきではない」

 

また、オランダのスピードスケート代表のヤン・ブロクハイゼン選手は「韓国は犬を大切にしてください」と発言して騒ぎになったようである。 

 

人の世には、「不浄なので豚肉は食べるな」などと言って、人の自由に抑圧を強いる宗教というデタラメの体系があることを知っているし、動物肉を用いた商品を毎日膨大に棄てる残酷極まりないデパ地下店員がいることを知っているし、デパ地下で買い物をするのに何故かペットや野良犬・野良猫の殺処分に反対の声を上げる人がいることも知っているので、このアメリカとオランダの選手のように偏った考えを持つ人がいることに対して特に驚くことはない。

ただ、僕は人間の事情で、BSEの時に殺された故郷・宮崎の牛や豚のこと、ブロイラーの悲惨な一生があることなどを、頭の片隅に入れて、少なくとも自分が得た牛肉・豚肉・鶏肉を残さないようにおいしく食べ、そのことをきちんと肯定する残酷さは持ち続けたいと思っている。

 

子供の頃にもらってきた犬を飼ったことがあるので、犬は大好きだが、僕は、動物を食べる自分の残酷さをきちんと肯定するので、気持ちの問題でペットを飼いたくない。

ましてやペットショップでは絶対に買いたくない。

ブロイラーはおそらくは韓国の食用犬とは比べ物にならないぐらいに哀れな育てられ方をすることを知っているし、それを知ったうえで鶏肉を食べる残酷さを持つことを肯定しているので、確かにそこに自己矛盾はある。

しかし、ペットという愛情の対象を売るペットショップやブリーダーの商売の本質や裏側を知ると、どうしてもそこでは買えないし、気持ちの問題でペットを持つ気にもなれないのである。

僕はそういう立場をとっているので、犬食は仕方ないと思うし、狂犬病などのリスクを考えると野良犬の殺処分もやむを得ないと思っている。

つまり、僕は、ペットをかわいがるやさしい自分と、牛・豚・鶏・魚などを平然と食べる自分を両立させることに相当なしんどさを感じてしまうので、僕は動物を飼わないことによって、動物の命を冷酷にいただくこと、それを肯定することに対して心のバランスを取るようにしているのである。

 

他者に左右されずに自由に生きようと思える

このように考えれば考えるほど人間世界の矛盾に嫌気が指すわけで、「日本死ね」ではなく「人間死ね」と思うばかりである。

こういうことばかりを書いていると終末的な危険思想の持主と思われて宗教の信者や公安に目をつけられかねないが、僕は自分の心さえ、他の抑圧的な「害念」から支配されずにいればそれだけで十分で、他者に対してアクションを起こす気はさらさらない。

そして、このブログはその内心の発露に役立っている。

また、人間においては自分がたかが73億分の1であること、僕以外の73億人がどうしようとどうにもできないことをしっかりと自覚している。

 

グローバルという概念の二重スタンダードと人間圏のルールの矛盾とデタラメぶりについて考えれば考えるほど、自分は他者に左右などされずに、ひたすら徹底的に自由に生きればいいのだなと思えてくるのである…ということを本シリーズの結びとしたい。

 

以下、ずっと昔に動物がらみで結構反響の大きかった回。

 

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以下、これまでの回です。

 

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我が愛犬“ちゃっぷ”が生きていた頃に描いた絵