特に西部氏のファンではなかったのだが、ふと、「西部邁って最近見ないけど生きてたっけ?」と思って、検索して生きているのを確認し、「勝手に殺しちゃだめやわな」と自分にツッコんでいたのが一昨日。
それだけに、今日、「自殺」で亡くなってしまったというニュースに絶句した。
本日付の産経ニュースに「『生の最期を他人に命令されたり弄(いじ)り回されたくない』とし『自裁死』を選択する可能性を示唆」とあったが、失意しかない自殺ではなく、そういった死であって欲しい。
でも、多摩川で死ぬのはしんどかったろうにと思う。
「合掌」とでも書くのだろうが、僕は宗教を毛嫌いしているので書かない。
ここからは西部氏の話とは完全に分離して述べる。
これ以上、医療が進むと以下のようなリスクがより顕在化するだろう。
- 医療を尽くせば本来死ぬものをいつまでも死なさずに生かしてしまうリスク
- どこまでもカネをかけようと思ったらかけることができてしまい、それをやったら財政や経済が転覆しかねないリスク
- カネが無い場合には場合によって死を選択せざるを得なくなるリスク
僕は、病気が治る見込みなくて苦しい毎日を送るようになるとわかったら死ぬ準備を整えた後にすぐにでも死にたい。
元気だからそんなことを言っていられるだけで、実際病気になったら死にたくなくなるかもしれないが、医療がもう少し進めば、安楽死を積極的に選択できるようにしないと財政的にもたないし、クオリティー・オブ・ライフに反するってことをほとんどの人がわかっていると思われるのに、何も手を打たない・打てない法制度を個人的には許せない。
自分で死にたいと思った時に尊厳死することを自殺と呼ばずに済む世界が明日にでも来て欲しい。
尊厳死・安楽死に見せかけた殺人を排除できさえするのであれば、僕はこの件に関しては相当ラディカルである。
僕は、可能な限り自分の人生を他人にコントロールさせないで生きているつもりである。
だから余計にそう思うのかもしれないが、やりたくないことを可能な限りやらずに、やりたいことだけをやって、自分で死ぬタイミングを決めて、自分が希望する死に方で死ぬって、むしろ良くないかと思う。
チベットのヤルツァンポ川のほとりにて。岩に描かれた天国への梯子