三波春夫の「お客様は神様です」という言葉は、人口ボーナス・キャッチアップ時代の働き手がいくらでもいる時代の産物なのだろうが、人口オーナス時代に突入して、働き手がいくらでもいる時代からそうではない時代に転換していっている。
そもそもお金というのは他人の労働を買うための手形なのだが、需要者ばかりが増えて供給者が減れば、対価が上がったり、供給側が強く出るようになるのはあたりまえである。
これは僕が今でも忘れない話である。
夏のローマは東京と同じくクソ暑いのだが、コロッセオ周辺を歩いている時に喉が渇いて仕方なくなって、水を売っている店を探したところ、何故かそういった店がなく、そこでやっと見つけた売店で売っている水の値段が3ユーロで、仕方なく、その屈辱の水をすすった。
しかも、当時1ユーロは170円で、ローマの両替所で円をユーロに両替をしたら手数料を入れると200円を超えるような時期だった。
富士山頂で妥当な対価と思って買った500円の水と違う思いですすったことは言うまでもない。
そして、利権なのかやる気がないのかわからないがここまで競争のないイタリアという国のすごさにも驚いた次第である。
利権のせいでないとしたら俺に2ユーロで水を売らせて欲しい。
このような事例を考えるまでもなく、欧米先進国でも、アジアの途上国でも、提供側が座ってふんぞり返って、場合によっては飯を食らいながら接客対応をしている光景は自分の体験では珍しくもなんともないのだが、日本には儒教や武家社会が作ってきた歴史があるためそうはならないにせよ、少しづつそれに近づいていっても仕方ないだろうと思う。
ヨーロッパなんてチップというおこぼれを渡さない限り、提供側の笑顔がなかなか見られないという、笑顔まで有料な社会だが、それほどまでに働く側がエラソーな社会である。
仕事がなくて観光客につきまとうアジアの街の人の笑顔を見るほうが余程簡単なぐらいである。
彼らはカネはなくてもこちらが笑顔をすれば大抵笑顔を返してくれる。
もちろん、中国はそこで言うところのアジアには含めない。
というわけで、日本の古来の文化と人余りと顧客の要求の高さが生み出した、提供サイドが行う「おもてなし」文化もいつまで持つものなのかわかったものではないと思う。
僕などは、スーパーのレジ打ちの人が立って胸の前に手を当てて会釈する接客などすぐに止めて座ってレジ打ちをして欲しいと思うのでむしろ早くそうなって欲しいと思う。
クロネコヤマトの内情を知るにつれ、我々の意識が「持ってくる」から「持ってきてくれる」に変わっていっているように、我々もレジ打ちの人に感謝するようになるほうがバランスが良いように思うのである。
既に飲食・小売りサービス業では日本人を集めるのが難しくなっているのか、外国人店員を見かけない日はない。
コンビニの中国人店員の不愛想な接客には最初は違和感を覚えても、今、彼らから勉強をさせてもらって全体的にサプライサイドが偉くなる未来に備えなくてはならないと思う。
それか、IT・AIが進んで、逆により人がいらなくなって、人が必死に仕事を探さないと「面倒だから人なんていらないよ~」と言われてしまう時代が先に来るのかは未来のみぞ知るである。
スーパーのレジ打ちなんていつなくなるか時間の問題だと思うしなあ。