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社会全般について思ったことをここでつぶやいてます

「省みて疾しければ己なし」という至言は清貧の思想の極致

先日のブログで、仰げば尊しの「いと疾し(とし)」の「疾し」の歌詞が出てくる部分の曲調のさりげなさの美しさを極大的に絶賛したのだが、本来、この字は「やまいだれ」で形成されており、「速度がはやい」という意味の他に、「病気」「なやむ」「憎む」という意味があり、非常にネガティブな字である。
ところで、中野孝次著「清貧の思想」に「省みて疾し(やまし)ければ己なし」という名言が紹介されているが、ここで使われている「疾し」は間違いなく速度ではなくネガティブな意味で使われている。

本阿弥光徳の「省みて疾しければ己なし」とはこれまた至言で、「大事なのは他人の目ではなく己れの心の律」だということを、「みずから省みて恥じる行為はしない己れの内なる律を持った人間」の代表格である本阿弥光徳を例に記しておられる。

「清貧」という言葉の意味は、「私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること」で、この前者と後者がイコールである必要はないという意見も多く、「清貧」という言葉を揶揄して、「清貧」より「清富」のほうがいいではないかといった向きもある。
僕も経済的に概してリバタリアンな考え方を取りやすいほうなので、「清貧より清富」という言葉には大きく頷いていた。

しかし、今はそうは思わない。
やはり「清富」より「清貧」のほうが高尚で、より自由だ。
それを理解するうえで中野先生の「清貧の思想」が役立つ。

中野先生のおっしゃる清貧とは、究極のシンプルライフを指しているのであって、社会や商業が氾濫させる情報やモノやサービスに反応して生きるのではなく、己の内なる律に従って高潔・簡素に生きることを指すのであって、逆の言い方をすれば、外部に反応して他律的に生きるのではなく、真の己の生であり豊かさを追求することを指しておられるのだ。

また、現在の過剰消費社会に明らかに持続可能性がなく、また、過剰消費社会が絶対的な幸福度や自由度を高めたとはも思えず、もはや、「富」を追求し続けることには無理があり、意味にすら疑問符がつくと考えられなくもない。
ほんの一例を挙げるだけでも、「富」を追求することが便利さを追求することへつながり、それがサプライサイドに長時間労働を強いて豊かになったのだか逆なのだかわからないようないびつな社会を形成してしまっているのだ(ありがたいことに僕はほとんど17時に帰途につけるのだが…)。

心の豊かさは外部の誘惑に飼いならされることではなく、「清貧」であり、「足るを知る」ことであり、「省みて疾しければ己なし」と自らを律するような部分から生まれるものだと年を重ねるごとに思う。

なお、僕が高校生のときに読んで、今でもたまに目を通している中野先生の「自分らしく生きる(講談社現代新書)」は僕にとって数冊しかないバイブルの一冊である。

…たく、FXの画面を見ながら舌打ちして書く文章じゃねえよな(笑)。