GOODDAYS

  世の中の歪みをかいくぐってひたすら逆張りの人生を歩む俺の意見

インド・ネパール

 

卒業旅行としてインド・ネパールへ

大学の卒業旅行として、タイ~インド~ネパールをキックボクシング部の同期3人組で旅をした。

「S氏」と「S氏」と共に行ったのだが、それ以外に表記のしようがないのでそのまま表記する。

だって両方ともイニシアルがH・Sなのだから仕方ない。

これまで一人旅ばかりだったで友人と旅をするのは初めてである。 


タイ

バンコク

インドへ入る前と、インドから出た後にはバンコクに1週間ほど滞在した。

というか目的地はインドと決まっていたのだが、バンコク行きの切符しか買わずにバンコク入りした。

バンコクからはどこへも格安で行けるのと、なんとか理由をつけてバンコクに行きたいからである。


インド

デリー

バンコクから飛行機で降り立ったのは首都デリーだった。

空港を出た瞬間からものすごい数の客引きに会い、わかってはいたのだが、それでもそのしつこさに早くもうんざりさせられた。

 

デリーの旧市街のパバル・ガンジでは、これまでに見たことがないほどに圧倒的な貧困層を目のあたりにした。

このカオスがおりなす光景にはものすごく強烈な印象を受けた。

物乞いの数もこれまで見たことのない数だった。

さすがに世の中の不条理を強く感じずにはいられなかった。

 

「こんな不条理を彼らはどうやって受け入れているのだ。インドには、いまだにカースト制度が幅を利かせているというではないか。建前は民主主義国家で人権を保障していながら、ありながらあまりにも社会保障がなさすぎなのではないか」と強く思った。

牛はヒンドゥー教において聖なる動物とされているからインドでは道を普通に歩いているということは知っていたのだが、実際に牛が道を陣取って渋滞が起きている様子を見ると驚くというか呆れてしまった。

そして、こういった考えは後々変化することになる…。


ジャイプル

デリーから数々の都市を周遊してヴァラナシに移動する予定だったのだが、その間、悪人面というか、暗殺者みたいな顔をしていたことから「ワル」と我々がそう呼んでいた中年のシク教徒の運転手の車をチャーターし、ラジャスターン地方のピンクティーといわれるジャイプルの美しい街並みやアンベールフォート、そして、有名なタージマハルやアーグラー城という北インドのメジャーな観光地を見て回ることとした。

実はワルがものすごく陽気でいい奴だったので、道中は非常に楽しかった。

また、頭にターバンを巻いているのは実はシク教徒で、シク教徒には比較的上層階級の人が多い。

 

デリーから南西方向へ260kmほどの場所にあるジャイプルにかけての道は花と草木が豊かに茂っていて、その間に都市は一切なく、村々が広がっていた。

インドの総人口の8割以上は村に住んでいるともいうが、マハトマ・ガンジーの「インドの魂は村にある」という言葉をふと思い出した。

 

そのうちにだんだんと周りが荒れ果てた感じになっていき、砂漠地方であるラジャスタン地方に入ってきてそこに浮かび上がるかのように「ピンクシティー」とも呼ばれるジャイプルの美しい街並みが見えてきた。

 

ラジャスタン・ジャイプルマハラジャが赤い色が好きだったからという理由で街中の建物がピンク色になっているという美しい街である。

砂漠の中にあるのに、宝石などの産業があることから大変豊かな都市なのだという。

 

雨がパラついていたこともあったのだが、青空ラジャスタンの乾いた感じはスペインのカスティーリャを思わせるものがあった。

 


ピンクシティーにてマハラジャの邸宅である「風の宮殿」の前でワルと…

 

アンベールフォートに向かう途中にマハラジャが夏の間に住まう宮殿の前を通ったが、湖の真ん中に宮殿が建っていてそれはそれは立派な建物であった。

さすがマハラジャである…。

 


マハラジャが夏に住む宮殿の前にてワルとS氏と…

 

アンベールフォートは荒れ果てた山の上にあるのだが、歩いて登るかわりに象に乗って登ることができるようだったので、当然ながら象に乗って行くこととした。

象の乗り心地は大変に良かったのだが、時々、象の鼻息に水が混ざっていてそれがかかるのだけが難点であった。


アンベールフォートからの景色はスペインのトレドで眺めた景色と似ていて、どこまでも荒れ果てた大地が続いていて、ラジャスタンの砂漠が織りなす風情に思いを馳せた。

この城のつくりは迷宮状になっていてそれはそれは楽しいものだった。

 

ホテルに戻って、ワルと談笑を酒を飲みながら交わしたのだが、ワルが酔ってきて熱く語りだしたのがすごくおもしろかった。

ワルは4人の娘のパパとしてがんばっているわけだが、ウチらは普通にワルと呼んでたけど、私達のことを「息子」と呼び、営業というのもあるだろうが、日本に帰ってからも手紙をくれたりした熱いおじさんである。

ちなみにこの日の夕食はサリーを着た女性が踊るのを見ながら食べたのだが、途中でワルが踊りの輪に加わって踊りはじめたので、その後はみんな弾けて踊った。


アーグラー

ラジャスタンからアーグラーへの移動も当然ワルの車でだったが、ラジャスタンから移動するにつれ、黄色い花々が青々とした草原に咲きみだれ、穏やかな気候であったことから「ここは天国か?オアシスか?」と思いつつ移動した。

アーグラーに向かう途中に「ファテープル・シークリー」というわずかな期間で打ち捨てられた廃都があり、短い期間で廃都にされたことを知っていたこともあって、ここには個人的にも興味があったので当然ながら訪れた。

ここから少し、ムガール帝国史に着目して書くこととする。

 

ここでは、ムスリムのやせ細った生真面目な老ガイドの丹念すぎるぐらいに丹念な説明を聞きながら回った。

ファテープル・シークリーは、ムガール帝国最盛期の皇帝であるアクバル大帝が設置した都であるが、「勝利の都」という名前を持ちながらも、水利が悪すぎたためにわずか14年で打ち捨てられたという歴史を持っている。

しかし、短期間しか使われないまま廃墟として残されたため、当時の建築物がほぼ原型を留めたまま残っているというところに何ともいえないロマンを感じた。

特色としてはイスラム教徒でありながらヒンドゥー教徒の王妃を迎えるなど、他宗教に寛容だったアクバル大帝の意向が反映されているのがおもしろかった。



ファテープル・シークリーにて老ガイドと


アーグラーといえばタージ・マハルが有名だが、まずはアーグラー城へ行った。

デリーで見学したラールキラーとそっくりなお城だったが、ここもファテープル・シークリーと同じくして一時期都が置かれた場所である。

ラールキラー同様、大変に立派なお城であった。

 


タージ・マハルにて

 

タージ・マハルは昔からずっと行ってみたかった場所である。

タージ・マハルはシャージャハンの妻ムムタージ・マハルの墓であるが、この墓を作るのに1日2万人の労働力と22年の歳月と国家が傾くほどの財力が使われたというから、その情熱たるやハンパなものではない。

「確かに、大理石でできたこの建物の恐ろしいまでのデカさと、レリーフの造りの繊細さを見れば国家財政も傾くわな…」と思ってしまった。

ただし、内部はムムタージ・マハルとシャージャハンの棺と地下礼拝堂がある以外にはガランとしていて「これは墓なんだ…」ということを強く感じた。

 

ムムタージ・マハルは大商人の娘で、15歳だったシャージャハンが当時12歳だったムムタージに一目ぼれして結婚を申し込み、5年後に結婚したという。

結婚後、ムムタージは毎年のように子供を生み続けたというが、14人目に女児を出産した後に容態が急変して亡くなったという。

そして、最愛の妻の死を痛く悲しんだシャージャハンはタージ・マハルの建設に踏み切ったという。

熱い男である。

 

ところで、ムガール帝国の皇帝親子は恐ろしく仲が悪い…。

第3代皇帝アクバル大帝も息子の第4代皇帝ジャハンキールと仲が悪く失意の晩年を過ごしたというが、第5代皇帝であるシャージャハンも父であるジャハンキールとえらく仲が悪かったという。

ジャハンキール亡き後、皇子の間での皇位継承争いに勝利して即位したシャージャハンだが、彼もまた、残忍極まりない息子の第6代皇帝アウラングゼーブ帝によって皇位を簒奪された挙句、幽閉までされ失意の晩年を過ごしたという。

アウラングゼーブ帝は兄を殺し、兄を味方した父に晩餐会で長男と次男の生首を開封させたりしたという…。

ただ、シャージャハンの遺体は、最愛の妻ムムタージと同じタージ・マハルに埋葬されたというからちょっとしたロマンもあるにはある。

 

ちなみにアウラングゼーブ帝はムガール帝国の最大版図を実現したが、イスラム原理主義的な政策をとったため、帝国を分裂・衰退の方向へ導き失意の晩年を送りながら90歳まで生き長らえたという…。

そして、彼もまた息子からの裏切りにあっている…。

その後の皇帝たちも何故かろくでもない運命をたどってばかりいるからムガール皇帝のいうのは自業自得だとも思うが本当に哀れである…。


ヴァラナシ

世話になり、さんざん楽しませてくれたワルとアーグラーで別れを告げ、夜行電車でヴァラナシへと向かった。

駅ではたまたまネズミとハトが異常繁殖をしている光景を目にしてしまい、恐ろしく不気味に思った。

列車の中は人がたかっていて、寝台の下段に寝ていたS氏など一体誰だかわからない男に座られたりして苦労していた。

 

そして、とうとう旅のハイライトともいえるヒンドゥー教の最大の聖地であるヴァラナシへ到着した。

本当は別の宿に泊まる予定だったが、空きがなかったため、インドで最も知名度の高い宿である「久美子ハウス」へ泊まることとなった。

旦那さんはインド人の久美子さんというおばさん夫婦がやっている宿である。

ドミトリーしか空いていなかったので、汚らしい床に汚らしい布団が敷かれたドミトリーに泊まることになったのだが、そこでは日本人旅行者が恐ろしく濃い会話を交わしていて絶句した。

ガンジャ大麻)王国インド恐るべしである。

あと、ここでは飯が提供されるのだが、言葉は悪いが、どうみても不味い飯を皆が美味そうに食べているのが不思議で仕方なかった。

 

気を取り直してヴァラナシの街を歩き回ったのだが、迷宮のような街はおそろしくカオスにまみれていて、またおそろしく不潔でさらにビックリした。

 


聖と俗が入り混じった街で立ちションをするインド人をバックに…

 

ネパール行きのバスチケットと、ネパールからインドへのエアチケットを手配しようとしたのだが、何故か生地屋でバスチケットとエアチケットを取り扱っているということなので、そこで手配を済ませた。

しかし、手配を済ませた後、主は、「まあ、いいから…」というようなことを言って、おもむろにチャイを差し出して、生地の製造の仕方について丁寧に語りだした。

そして、その解説が一通り終わった後で、「これはどうだ!これはどうだ!」と売り物の生地を次から次へガンガン広げだした。

「わ~!片づけるの大変だろうからそれ以上広げないでくれ~!買うから!も~!」と思わせてから交渉に入られるからたまったものではない。

まあ、なんだかんだ言ってかなり安いし、ちょうどタぺストリにする生地を買って帰ろうと思っていたから良かったのだが、上手い商法だな~と心底感心した。

 

翌朝は日の出の時刻にボートトリップへ…。

人々がガンガーで沐浴する光景をガンガーのほうから眺めることとする。


「浄」とされる岸には寺院とガートがこれでもか押し並んでいるのに対して、「不浄」とされる岸には何一つなく、それを見るにつれ、ここにおいてはどれほどまでに信仰というものが幅を利かせているのかがわかり、心から圧倒された。

日の出は不浄とされる岸の地平線から出ていてとても美しかった。

 


ヴァラナシの夜明けとガンガーの不浄の岸

 

聖なる岸のほうでは信仰を心の拠りどころとする人々が沐浴をしていたのだが、何故か、ヒンドゥー教の信者でもないくせにS氏が川に足をつけて不浄の岸に上がった。

「不浄の岸に上がっては逆効果だろう」とも思ったのだが、後になって「不浄の岸に上がってから足がやたらと臭くなった」と言っていた。

おそらくは普通に足が臭くなったのを川のせいにしているだけだろう。


しかし、川の水を日本人が飲みでもしようものならたちまち数種類の伝染病にかかると言われ、糞尿や死体をそのまま流すような、下手すると死体が浮いているような不衛生的な川に浸かることなど私にとってはありえないことであったが、S氏は足が臭くなる程度で済んだからまだ良かった…。


しかし、ガンガーのガート(沐浴場=火葬場にもなっている)にて、衛生的にはこの上なく汚いことこの上ないガンガーの水を聖なる水として純粋に崇め、恍惚の表情で沐浴し、死んだら灰をここに流してもらうことを何よりも切に願って信仰に生きる素朴な人々を見続けるにつれ、以下のように思った。

 

彼らは皆穏やかで幸せそうだ。

ここでは、人々を救済する手段として、宗教がものすごく役に立っている。

何故なら、彼らは信仰によって「諦観」を得ているように見えるからだ。

結局、人間にとっての幸福や不幸はその本人の尺度によってのみ形成されるものであって、どのような状況にあっても幸福を感じるようになるために必要なものは、世の中のあらゆる不条理に対する「諦観」である。

我々の住む社会は「大志を抱け」「夢を持て」「努力をすれば何でもかなう」などという嘘言を子供の頃からすりこんで人格を形成させる。

「チャンスに富んだ自由社会」は、一見、個に幸福を与えるかのようでありながら、その「大願」のほとんどが言葉どおりには「成就」せずに終わってしまうため、あらかじめ不条理を教え込む社会に対比すると、個に本来不必要な不幸感を抱かせやすい。

つまり、「諦観」を身につけずに育ってしまうと、自分のことを特別な人間だと勘違いする自己中心的な人間に育ちかねなく、そのほとんどは、現実の世の中の不条理さの中で苦しむ経験をやがてしてしまうことになるのであるが、この地においてはまずそれがない。

ああ、うらやましい。

もしかしたら、インドの人々は信仰に生きる生活の中で幸福というものを最も最短距離で得ているのかもしれない。

それに、現世は不幸でも徳を積めば来世で報われるというのだから、もし、自分がそれを心の底から信じることができるならばどれほどまでに報われることだろうか…。

合理的でないことこそが、人間の救済にとって合理的だといえるのかもしれない。

それがわかっただけでもインドに来た甲斐があった。

 

船からマニカルニカーガートで死体を焼いている様子(ガート内は撮影禁止)


インドの民俗宗教に過ぎないヒンドゥー教だが、彼らの祈りには心を打たれた。

 

ガートの近くのホスピスのおっさんが話しかけてきて以下のような話をしてきた。

女性は取り乱すのでガートへの立ち入りが禁じられていること、男は白・女は赤の布にくるまれて死体は焼かれること、川で洗って3時間かけて焼くこと、男は肋骨・女は骨盤が焼け残ること、罪のない子供やサドゥー(聖人)は焼く必要がないこと、病人は伝染するといけないので焼かずに川に入れること、ホスピスの人はガンガーで焼かれることだけを願って死を待っていることなどを聞いたのだが、何せこちらにはつたない英語力しかないものだから、この中には真っ赤なウソがあるかもしれない…。

 

ガートにて死体を丸焼きしている様子を見て何ともいえない気分になったところで、ラッシー屋に立ち寄り、バングラッシー(○麻入りラッシー)を頼んだ。

激しいとどうなるかわからないのでライトにしておいたが、宿に戻ってから、ほんのくだらないことで笑い出し、その後2時間ぐらい笑いが止まらなくなった。

多分効いたのだと思う。


この夜は、夜じゅうヒンドゥー教の祭りが行われていたために大変騒がしく寝苦しかったのだが、やっと寝ついたかと思うと、妙な快感が下半身を襲ってふと目を覚ました。

「2週間も溜まっていたからしかたないか…」と思いつつ、屋上に上って興奮して祭りに興じる民衆を見下ろし、しばらくして再び眠りについた。


ス移動

翌朝、ネパール向けのバスに乗って、バス移動することとなったが、恐ろしく狭い座席のバスでこの日12時間、その翌日は10時間のバス旅となった。

 

1日目はネパールの国境を越えてすぐの宿に泊まらされた。

バス代・ホテル代・2食込みで800円のバカ安ツアーだから贅沢はいえないが、ネパールに入ってからはツーリストバスではなく公共のバスに乗らされた。

当然、公共バスなので一般の人々も乗ってきた。

 

我々は座れていたからまだ良かったけど、ぎゅうぎゅうに混みあった中で立ちっぱなしの人は本当にかわいそうであった。

途中で2回しか休憩がなかったので地獄であった。

しかも、人が多く過積載のため坂道になると歩くぐらいのスピードでしかバスが進まなかったのだが、このせいで3時間も到着が遅れたのだから最悪であった。


バスがポカラに到着する少し前に北の方向に銀嶺が姿を現した。

夢にまで見たヒマラヤ山脈である。

空のはるか上方で夕陽をうけて輝くアンナプルナ連峰は心が震えるほどに美しかった。


ネパール

ポカラ 

夕方にポカラに着いたが、何故かこの街の宿のレベルは異常に高かった。

洋風のオシャレな宿なのに1泊の値段も2ドルぐらいで相当安かった。

街自体も軽井沢とまでは言わないものの、欧米風のテラスカフェやみやげ屋やジュースバーなどがたくさんあった。

 

昨日の夕陽に照らされるヒマラヤも美しかったが、朝日に照らされるヒマラヤもこの上なく美しく、それだけで十分に満たされた。

800メートル程度の高さの場所から見る7,000メートル級の山々の迫力はすさまじい。

世界中でもこれだけ高低差がある展望が得られる場所は他にないのだという。

日本で富士山を見る時も迫力を感じるが、あの2倍の高さにまで山があるのである。

「なんであんなに遠くにあるのに、そんな上のほうにまで尾根があるのかね?」と思いながら上を見上げてしまうのである…。


ネパールに入って気づいたのだが、ネパールの人々はガヤガヤ騒がしいインドとの人々とは違って、穏やかだった。

人々の顔もチベット系が混ざっているからかどこか穏やかであった。

ところで、この街ではチベット人のおばさんがアクセサリーを持って物々交換をしようと言ってきたので、いくらかの物と米ドルでラピスラズリやガーネットやヘマタイトのアクセサリーと交換した。

100円ショップで売っているようなものでアクセサリーをGETできてかなりラッキーだった。

 

ある朝、朝日が昇る前にサランコットの丘という丘に登ってヒマラヤを望んだが、こちらには陽が差していないのに尾根にだけ金色の朝日が差してきて、その金色が少しずつ銀色に変わっていくさまは心を強く打った。

 


ヒマラヤ山脈のアンナプルナ峰はとても美しい


カトマンドゥ
 

ポカラからカトマンドゥへは休憩を入れて6時間弱のバス旅となった。

ネパール人の大学生とずっと話をしながら来たのだが、世界最貧国一つであるこの国で大学生をやっているというのだから裕福な家の出でエリートなのだろう。

 

道中はずっと川沿いの山道だったが、そこから見える丘にはどんなに急な傾斜であろうと棚田や段々畑が広がっていた。

「畑仕事をするのにいちいち山を上り下りするのはどんなに大変なことなのだろう…」と思うと気が重くなった。

ただし、カトマンドゥの周辺だけはカトマンドゥ盆地に囲まれていた。


豊穣なインドと違って国土に恵まれていないために貧しいさまは、毎年水害や洪水に見舞われるバングラディシュと同じでかわいそうに思えた。

…とはいえど、カトマンドゥは魅力的な都である。


旅行者はタメル地区という安宿街に向かうことがほとんどなので、当然ながらここに幕営することとした。

何故か周囲に「ハンニバル・ベーカリー」のような欧米風のベーカリーや、「古都」のような相当レベルが高い日本食レストランがたくさんあったり、他にも日本の古書の古本屋や、レーザーディスクだけど日本のカラオケとそれほど変わらないカラオケBOXがあったりするのもカトマンドゥのすばらしいところである。

もちろん、日本食も食したが、ネパール料理のモモやトゥクパも何度も食した。

 

文化財を見る観光地としてのレベルは全く高くないが、沈没するには絶好の場所である。

あった…というほうが正しいのかもしれないが、理由は後述する。

 

活気のあるバザールであるインドラチョークやダルバール広場を練り歩いたが、ダルバール広場では昔から欲しかったチベット仏教の仏具であるマニ車曼陀羅を入手できた。

マニ車は一度回すと一度経典を唱えたことになるという怠け者な仏具である。

インドラチョークでは、ヤクのTシャツや紅茶や座布団カバーやマフラーやニット帽やベッドシーツなどを購入した。

インドラチョークの混沌とした情景は、ごみごみとしてはいたけどなかなか絵になる情景で、デリーのパバル・ガンジを彷彿とさせる雰囲気だった。


街中にはやる気のなさそうなヤクがごろ寝していれば、ヒンドゥー教の聖者であるサドゥーが何故かずっと片足で立っていたりした。

サドゥーのような世捨て人を見ると、「いかに貧しい国でも、物質より精神を大事にしてこういった苦行に乗り出す人がいるんだ…」とある種の感動を覚える…。



混沌としたインドラチョーク・ストリート


ずっと片足で立ち続けるサドゥ

 

古都パタンはダルバール広場と似たり寄ったりではあったが、ネパールの古都の雰囲気を留めた場所であった。



古都パダン


チベット仏教のストゥパ(仏舎利)であるボダナートを見物したが、仏教独特の厳かな雰囲気を十分に感じることができた。



ボダナート(チベット仏教寺院)


カトマンドゥではカメラを無くしたのだが、保険会社に提出する「紛失証明書」の書類を警察にもらうまでに何回も足を運ばされて苦労した。

関係ない話だが、こういった辺境の地などに行くと、日本で全く男に相手にされないような選りすぐりの不美人がこういった場所で現地の男や白人と手を組んで歩いているさまをたまに目にする。

こういう輩が勝手なことをするから、「日本の女はすぐにやらせてくれる」と思われかねないんだと思い妙に腹が立った。

日本で外人と手を組んで歩いている日本人女が大抵ブスなのと同じだが、海外でこうやっている女はそれとは比べ物にならないブスばかりなわけで、普段相手にしてもらえないからこういうところで曲がりなりにもそう扱ってくれることに感動してしまうのであろう…。


ところで、これは重要な補足である。

ネパールでは、2001年に、民主的で国民の敬愛を集めていたビレンドラ国王および、彼をはじめとする王室一族を、ディペンドラ皇太子が銃で惨殺した上で自らも銃で自殺するという衝撃的な政変が起きた。

そして、”たまたま”不在だったギャネンドラが王位についたのだが、その後は、非常大権で議会を停止し専制的な政治を行っているという。

なお、惨殺の原因は「ディペンドラ皇太子が結婚に反対されたから」ということになってはいるのだが、ビレンドラ国王とディペンドラ皇太子は親中派だったのに対し、ギャネンドラは親印派で、彼の家族だけ生き残ったことや、自殺したディペンドラ皇太子は後頭部から銃で撃ち抜かれていることから、国民は真相としてはギャネンドラが自分以外の王族を惨殺したのだろうとウワサをしているのだという…。

そして、この政変をきっかけにカトマンドゥの治安が一気に悪化したのだという…。

これは後年に補足で書くが、さらに地震でパダンは壊滅的な被害を受けた。

 

インド(再)

カルカッタ

カトマンドゥからカルカッタへは飛行機で飛んだ。

カルカッタの安宿街であるサダル・ストリートは、今までの安宿街と違って、こじんまりとした雰囲気で歓楽街といった趣きは全くなかった。

また、標高1,200メートルの高地から下ってきたこともあって暑く感じた。

「かつて、イギリス人をして、『宇宙最悪の都市』と言わしめたことのあるカルカッタとは一体どういうところだ…」と昔から気になっていたのだが、沢木耕太郎氏著の「深夜特急」に描かれているような混沌とした感じもなく、そちらのほうへの期待も肩透かしであった。

デリーのほうがよっぽど濃かったと思う。



サダル・ストリートで物乞いの少年とSくんと…


サダル・ストリートから一歩は離れるとインドらしい小物売りのバザールやニューマーケットという大きな市場があって活気があった。


カルカッタという都市は人口1,200万人を超える割には、大して歴史もなく、観光的にはおもしろみのない都市で、イギリス支配の拠点だったこともあって、インド皇帝を兼ねていたヴィクトリア女王時代に16年もの歳月をかけて大理石で建築されたというヴィクトリア記念堂や、聖ポール寺院といった建物が主な観光地だというから、「そんなならヨーロッパにでも行ったほうがマシじゃねえか…」といった気になる。



ビクトリア記念堂にて


どうでも良いが、「あえてインドで牛肉を…」ということで、サダル・ストリートのリットンホテルで牛ステーキを食べたのだが、なかなか美味であった。


タイ(再)

バンコク

カルカッタからはバンコクを経由して東京へ戻るため、バンコクへ立ち寄った。

 

最後の日だし、帰っても卒業・就職というろくでもないイベントが待ってるだけだったので、ここぞとばかりにシルバーアクセサリーやCDやカセットテープなどを購入した。

そして、夜のパッポン通りで、偶然同じ時期にバンコクに来ていた友人のK氏やM氏と出会ったのでライブショーバーに出向いた。

なかなかカワイイ子がついてラッキーだったのだが、K氏がその子の股間に指を入れてまざくりながら、「Mちゃんすごく心配してたよ…」と、神妙な顔つきで当時の彼女が心配してくれた旨を知らせてくれた。

そして、翌日に無事帰国したのであった…。


全体の所感

インドのカレーは美味しかった。

毎日毎日、カレーばかりを食べているのにそれに全く飽きることがなかった。

他にも食事の選択肢があるのに、何故か、毎食カレーが食べたくなった。

しかも、カレーを食べた後には絶対に甘いチャイが飲みたくなった。

このとき以外に、毎日、同じ料理を食べたくなったことは、いまだないだけに今でもこのことは不思議に思っている。

 

美味かった料理ベスト3が、ジャイプルで食べたダル、同じくジャイプルで食べたバターチキン、カルカッタで食べたタンドリーチキンだった。

特にジャイプルで食べたダルはこんな奇跡的に美味い食べ物は後にも先にもない、一生忘れられない美味さだった。

…で、逆に最悪だった料理は、カトマンドゥーで食べたちらし寿司、ヴァラナシで食べた臭い親子丼、久美子ハウスで提供される飯だった。

ちらし寿司は美味いかどうかが問題なのではなく、高かったのに「すし太郎」をかけただけだったのである。

多分、手に入れるのが大変だったのだと思うが…。

 

飯の話ばかりを書いてしまったが、まあ、こんなところである…。