GOODDAYS 東京仙人生活

ひっそりと静かに生きる47歳仙人のつぶやき

手紙の断捨離は難しい

俺が大学生になったのは1995年だった。

1990年代初頭にバブルが崩壊し、ソ連が崩壊し、政治にダイナミズムが起きるかと期待した細川連立政権が発足して1年持たずに崩壊し、不良債権問題が社会問題化したものの、日本のGDPが頂点を極める時期であった。

また、1995年は阪神淡路大震災オウム真理教によるテロ事件が起きた特別な年だった。

そして、18年間宮崎に住んでいた俺が、その後24年間以上住み続ける東京に移ったという意味でも個人的にあまりに特別な年だった。

 

1995年末にWindows95が世に出てインターネットが普及していって時代が大きく変わっていったが、当時はインターネットへの接続は時間従量制だったし、通信速度は異常に遅かったので、大学生が日常的に使うにはまだ適していなかった。

当時は市外への電話料金が驚くほどに高かったし、まだポケベルの時代で携帯電話やPHSは学生にまでは普及していなかったからとにかく手紙でやり取りをした。

メールを出す感覚で書いては切手を貼ってポストに投函していた。

大学生最後の20世紀末の頃には携帯電話を持ち、PCとメールアドレスも持ち、さらにその後には電話料金が安くなったり、Skypeが使えるようになっていったので手紙を書くことなどそうそうなくなったのだが、この1995年前後というのは手紙というツールが日常で使われていた最後の時期だったのではないかと個人的な体験からは思う。

 

1995年の大学一年生の時は特に浪人中の友人・地元に住む友人・母親と日々手紙をやりとりしていた。

また、海外に旅に出て暇な時間ができた時には友人や家族に絵葉書を書いて送りまくっていたのだがバンコクカオサン通りのカフェに佇んで書いた絵葉書の枚数はとんでもない数だったのではないかと思う。

同じように旅先の友人や、海外で知り合った日本人や外国人から数多くの手紙をもらった。

 

俺は常に断捨離を心がけているミニマリストを自認しているのだが、著名ミニマリストの方々は「本や写真や手紙や説明書はスキャンしてデータ化して捨てるべし」と口をすっぱく述べられていて、確かにこれらのモノは場所を取るので俺だってそれが可能ならそうしたいと思っている。

本は「この本は確実に定期的に読み返す可能性が高い」と思っているバイブル的な本以外は躊躇せずに捨てるか譲渡するようにしているし、実家でなく我が家に置いているアナログの写真の枚数は問題にするほどの枚数ではないし、家電が少ないので説明書をファイリングして取っておいても大した量にはならないし、モノも定期的に要不要を厳しく選別している。

 

しかし、手紙や葉書だけはどうしても捨てられずにいる。

それなりにかさばるし、場所も取っているのだが、どうしても捨てられないのである。

先日も選別して捨てようと思って、手紙の袋を開けて少し読み返したのだが、少し読むだけで俺の頭から完全に抜けていた記憶がどんどん蘇ってきた。

特に浪人していた3人の友人が俺に送ってきた手紙はとんでもなく時間をかけて書かれた力作揃いで、今でも見るたびに驚く。

写真や雑誌やチラシの切り抜きがギャグで貼られていたり、絵が描かれていたりしていて、「受験勉強中の息抜きもしくは逃避のために時間かけて書いたんやな~」と唸らされる内容のものばかりで、時に笑い転げながら見返した。

幸い彼らは高偏差値の大学に受かってくれたし、今でも仲良くしているが、この手紙を読み返せば彼らとの思い出がさらに鮮やかに蘇るし、未来の俺がこれを読み返しても同じような気持ちになると思う。

 

両親からの手紙も多い。

「いつまでもチャラチャラせずにちゃんとせんと」とたしなめているものもあれば、真面目な内容のものも数多くあって、「この頃の親は俺にこんなことを言ったり心配していたりしたのだな」と色々と考えさせられる。

旅で出会った日本人や外国人とは今となっては連絡がつかなくなっているが、彼らからもらった手紙を捨てることは彼らとの思い出を俺の脳から消すことにすらなりかねないし、大学生の時にガンで亡くなった親友が病床からよこしたふざけた内容の手紙の数々は一生の宝である。

 

これらの手紙をスキャンして捨ててしまうことができるかといえば今の俺にはできない。

封筒にですら何か趣向が凝らされているからというのもあるし、手書きの手紙そのものにもインクや筆圧などデジタルでは察知できない味がある。

そして、1995年前後を最後に家に溜まる手紙の量はうんと減っているのだからこの手紙を取っておいてもさほど邪魔にはなるまいと結論づけるに至った。

このように結論づけたので、これからマイ断捨離ブームが度々起きてもこれらの手紙に手をつけることはないと思う。

  

 

ケンカ下等

言うまでもないが、発言には「国家→企業&有名人→個人」の順で慎重さが求められる。

 

個人が「フィリピン人の家事代行の人にうちのバカ息子の成績表を見られても気にならないからありがたいわ。もし、日本人のおばさんのスタッフだったらうちの息子がバカだってことが丸バレで恥ずかしいものね~」「日本人のおばあさんのスタッフが来たらあれこれ気を使っちゃうし、うちの汚部屋見られるの恥ずかしいでしょ~」と言ってもアハハ!で済むのに、企業が同じようなことをオブラートに包んで潜在顧客に伝えると「気遣い不要とは失礼」と叩かれ、ネット世論から謝罪を要求されるわけである。

男子トイレ掃除をおばさんがやっていても、スーパー銭湯の男湯におばさんスタッフがズカズカと入ってきてもあれこれ言う野暮な人はいないが、俺を含め、これが若い女性だったら気になる人もいるだろうし、もちろん、男女が逆だったら大騒ぎだろうから、「おばさんは万人に対して無敵。おばさんにならチンコ見られても気にならない」と男性全体がおばさんを容認しているわけである。

 

雑誌SPA!の「ヤレる女子大学生RANKING」企画が足をすくわれたのには「これまでもSPA!は無茶苦茶なことばかりやってきた雑誌だけど今頃?」とガチで驚いた。

あの雑誌の企画を真面目に読んでいる読者なんていないと思うし、客観的なランキング表を作ること何で土台ムリなのは火を見るよりも明らかで、ほとんどの読者はライター渾身の娯楽作品としてテキトーに流して楽しむだけで済ますが、実際に書かれた大学の当事者にとって許せぬとなるのも当然ながら理解できるし、ここを攻めればSPA!が居直ることなんてできないということも簡単にわかる。

SPA!側が「何かを言われれば謝っとけばええだろ。話題も集まって売れるべ!」と思って毎号の特集を組んでいると信じたいが、仮にそうでなかったとしたら単なるアホである。

 

それにしても、タテマエというものがつきまとう企業や有名人や実社会に求められる言語使いと、匿名個人がネット上で書く内容の酷さの乖離があまりにも激しすぎて人間の本性というものにほとほと嫌気がさしつつも、所詮、そういったダークサイドが皆無の世界があったとしたら退屈過ぎて多くの人は3日もいられんだろうなというのが現代社会に生きる人間が持つ病というものでもある。

 

冒頭に国には最大限の慎重さが求められると述べたが、トランプ大統領のような指導者が数多く出現してこの図式が怪しくなっている感があるものの、国家は法律と軍事を司るので、原理原則的にそうでなくてはならない。

レベルが低すぎて韓国のことを話題にするのもバカバカしいが、「韓国の政権と国防部とやらは大丈夫なのかな?」とケンカの下手さについて本気で心配してしまうとともに、ゴーン氏事件も霞んでしまうような続報を次々と出しまくってくれるので、これでは右寄りの人でなくても釘付けになってしまう。

 

大人がケンカをするには相手を打ち負かすだけの証拠や法的根拠というカードが何枚も必要なのは言うまでもなく、それがないのにケンカを売ると恥ずかしい目に遭うだけで済めば良いが、下手すると倍返しに遭う。

どう見ても韓国軍側にカードは見当たらず、韓国側のビデオは年始早々「笑ったら負け」レベルなのにこれを8言語で広めるというのだからやぶれかぶれにもほどがある。

「ケンカするなら勝てる材料でやれよ!」と一丁目一番地から心配してしまう。

 

または、相手にどう思われても構わないし、報復があっても受けて立つという場合もあるだろうが、そのためには報復されても痛くないだけの備えが必要になる。

韓国の外貨準備高が過去最高を記録したらしいので通貨スワップ協定は不要だろうが、日本から韓国へ輸出するフッ化水素などの特定の輸出品に制限をかけるだけで韓国は大ダメージを被る。

圧倒的に日本側の貿易黒字ではあるが、日本にとってそういったものは何もない。

 

失うものがあるほうにとって、ケンカそのものが非常に面倒だし、そんなことにエネルギーを使うだけ無駄だし、理解し合えない相手と理解し合うことにはどのみち無理な面があるので、実害を被っていない限りは、たとえカードをたくさん持っていたとしてもケンカに持ち込まずに済ませるというのが最も賢いやり方である。

韓国当局が逆ギレしなければ日本も毎度のごとく武士の情けをかけて終了だったのだろうが、負けるケンカを仕掛ける韓国当局の頭の悪さはあまりにも残念である。

衝撃的な犯罪事件を起こす人間には失うものが何もない「無敵の人」が多いが、もはや先進国の経済力を持った韓国は「無敵の国」北朝鮮ではなく、それには当たらない。

なにもかもが意味不明で無意義である。

でも、「韓国が日本に食ってかかる時は大抵は嘘」と世界中に広報できたという意味では日本にとっては大変に有意義だったと思う。

 

なお、失っては困るものがある個人にとって最もケンカを売ってはいけない人種は現代社会に増殖中の無敵の人である。

無敵の人とだけはケンカをしてはいけない。

憐れみながら穏便に済ますか、無視してあげれば良いだけである。